東洋大学校友会報 No.269
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12TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 269まったのです。明治4年から1年3か月をかけて、1万6千坪の中に、木骨レンガ造の繰糸所、東置繭所、西置繭所(以上3棟は、国宝)と工女さんの宿舎2棟、36の鉄枠を積んだ煙突、蒸気窯所、貯水槽、候門所を完成させました。明治6年には検査人館、女工館、ブリュウナの首長館を建設。その他、診療所、病棟(フランス人医師マイエ)も敷地内に作り、工女さん(400〜500人)の健康管理を行いました。・繰糸所…140・4m×12・3m×12・1mでフランスの繰糸器が300釜あり、当時、世界ではこれ以上の大きな工場はなかった。・東、西置繭所…104・4m×12・3m×14・8mで2階を繭倉庫にして、蝶番を使った観音開きの窓をたくさん作り、繭の乾燥に留意した。・検査人館…フランス人男性4人が住んだが、2人は怠業の理由により政府か群馬県支部の「お国自慢」として、平成26年6月に世界遺産に登録された「富岡製糸場」をご紹介します。富岡製糸場は、明治5年7月にフランスの技術を導入して完成した、日本で最初の官営模範製糸場です。明治政府は、外貨を獲得し富国強兵、殖産興業政策で西洋のような工業化を目指すため、「座繰り」で繭から生糸を取り、ヨーロッパに輸出していました。しかし、粗製濫造が横行して品質が低落しており、西洋から器械製糸場設置の要請がありました。当時の政府の役人、伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一は、横浜の居留地貿易でフランスから来ていたポール・ブリュウナを指導者に雇い入れました。そして、製糸場建設予定地として信州、上州、武州などを見て回り、さまざまな条件から、この上州・富岡を建設地とすることが決観光客で賑わう富岡製糸場富岡市イメージキャラクター“お富ちゃん”と蚕の幼虫世界遺産!富岡製糸場ら解雇された。・女工館…フランス女性(15〜27歳)が住み、工女さんに機械や糸の取り方を教えた。・首長館…ブリュウナが妻と、二人の赤ちゃんと使用人と共に生活した建坪320坪の住居。地下室が3部屋あり、赤ワインや食料品を入れていた。・鉄水溜りゅう…明治8年にヨーロッパから輸入した鉄板をリベット接合して作ったもの。貯水量約400トンで、日本の鉄製構造物では最古級。大きな建物には避雷針が設置されており、日本で最初に設置された避雷針と言われています。なお、富岡製糸場は、明治5年10月の操業後(21年間は官営)、民間に払い下げされ、三井家(9年間)、原製糸所(36年間)、片倉製糸所(49年間)など、たびたび経営者および名称を変えています。富岡製糸場へは、毎年多くの観光客が訪れています。昨年度の入場者数は、114万人強でした。富岡製糸場の解説員のひとりとして、日本の近代化に大きな役割を果たした製糸工場の見学をぜひお勧めします。支部長 原田邦昭(昭41経済)(富岡製糸場解説員)群馬県

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