東洋大学校友会報 No.270
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TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION●27017「弥勒白山会」について菅 厚世昭36応社 福島本会の発端は、卒業5、6年後、首都圏に職を得た同期生のいわばお互いの「励まし会」と聞いている(現在の幹事長は、関信夫氏・昭36応社)。以後、30~50代までは互いの活躍期で集う機会も少なくなっていた。今から23年前頃、野球部も東都大リーグ一部に定着して久しく、OB、学生も神宮球場に通う機会や成績に関心が行き始めていた。当時は、57~58歳で肩を叩かれる人も少なくなく、大本康貴氏(昭36応社)も早めに退職し、東洋の全試合を応援していると自慢、先輩の渡辺栄二氏(昭33社会)とともに、神宮球場のいわば牢名主であった。韓永石氏(昭36応社)は、ある会合で仕事に行き詰ったり強度のノイローゼになった時の特効薬は、神宮球場での野球応援だとしみじみ述懐している。ともあれ、野球応援時の同期生再会は、会の結成につながっている。命名は、作家・評論家・大宅マスコミ塾の藤田公道氏(昭36応社)で、三六とかけて「弥三六勒白山会」。年1度は会員在住地方へ旅行、春2度・秋3度はスタンドで野球応援、結果としての祝勝会、たまには残念会が主な行事だ。薄暗い階段を一挙に登り曲がり角を過ぎると球場の外観とは異なり、カラースタンドの明るさ、人工芝の緑、そこにはすべての「うっ屈」を解放してくれる空間が広がっている。まさに、学生野球のメッカにふさわしい。以前、弥勒白山会で行った良寛和尚の庵、一日4合の米を托鉢、庵に戻れば「焚くほどは、風がもてくる落葉かな」の達観というか、一つの人生を降りてしまった哲学者・良寛のすがすがしさを玩味すべきであろう。良寛は、托鉢の折々に、その場で出会った子供の遊びに飛び入り脱穀したワラ山に「かくれんぼ」。あまりの心地よさに一晩ワラ山で過ごしてしまうエピソードも残している。この行動は、禅でいうところの「前後裁断」。過去と未来を断ち切れば、残るは「今、現在」。その「今、現在」を精一杯生きよというのがその教えのようである。前後裁断し「今」に生きるには我々凡人、一種の囲い込みというか「場」が必要。それは良寛にとっては暖かいワラの山であったり、当会にとってはスリバチ型の劇場、すなわち野球場である。試合中は、応援指導部の許もと、腕を振り、ともに歌い、終了後は両校のエールの交換、後は願わくば楽しい祝勝会といきたいものである。2時間有余の試合中、「我」を忘れるというべきか、「我」を取り戻す「実存」の世界に在ることは間違いない。なんと、50年振りの再会 文学部二部・文学研究会(サークル)坂口義弘昭40国文 城北なんとなんと、二部文学研究会のメンバーが、平成28年8月20日、東京浅草の「神谷バー」で念願の再会を果たしました。個々には会うケースがありましたが、かつての二文・文学研究会の会員が一堂に会したのは、50年振り。在学中は、文学部の神作教授や伊東教授のご指導を受けつつ、文学散歩や作家の作品の舞台を訪ね、これを取材・レポートにまとめ上げるなど、大いに幅広い活動を繰り広げたもの。会場では、まるでかつての面影がなかったり、逆に、学生服を着せれば、もとの学生に戻るのではないかと思わせる面々もいて「おや」「まさか」「うそー」など、あちらこちらで驚きの声、こえ、コエ。写真は、ズラリ揃ったかつての文研メンバー。OS

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