東洋大学校友会報 No.274
13/24

TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION●27413校友五ごとう藤 利としひろ弘映画監督 脚本家1992年社会学部社会学科卒業。テレビのドキュメンタリー番組やニュース番組特集などの制作に プロデューサー、構成、演出で携わる一方で、脚本家、監督として映画制作に携わる。2017年監督脚本作『レミングスの夏』が函館イルミナシオン映画祭で観客賞グランプリ受賞。僕は大学在学中に脚本を学び、大学の友人などを誘って自主映画を撮ったりしていました。大学を卒業する頃、90年代初頭は世の中がまだバブルの終わり頃で、就職活動をしていた友人たちは、企業から接待を受けたりしていたいい時代でしたが、僕は映画の世界に行きたかったので、就職はせずに手探りのままアルバイトをしながら脚本の勉強を続けました。そうするうちに、フリーのプロデューサーが作家集団をつくるとのことでそこに参加し、次第に企業ビデオやテレビの深夜番組の構成の仕事をさせていただくようになりました。20代の頃は、とにかく新聞雑誌を漁っては面白い情報がないか探して番組企画書を書いていました。20本から30本書いて1本が通ればいいほうです。それでも、ひたすら書いていました。そうしているうちに、制作会社のプロデューサーに気に入ってもらってテレビのレギュラー番組の構成を担当させていただくようになり、30代を迎える頃には特番やドキュメンタリー番組、ニュース番組の企画をテレビ局に提出して、通れば番組をつくらせてもらうようになりました。ニュースの特集などは、自分の考えた企画が通って形になることがとても嬉しかった記憶があります。テレビの仕事が安定する中で、並行してビデオ映画やいわゆるピンク映画の脚本を書かせてもらう機会があり脚本作品を評価していただきました。ピンク映画は、御茶ノ水アテネフランセでも新進の若手作家特集で上映してもらったりしました。そうしてベテラン監督から僕が書いた脚本を気に入っていただき、何本か書かせてもらうことになります。形にならない脚本など、何本もこの時期に書きました。並行して仕事の合間に、自主映画を撮っていました。コンペに出した短篇が続けて入選して、演出の仕事でも声を掛けてもらえるようになりました。その中で、ビデオ映画を監督してみないかとお誘いをいただきました。そして、商業初監督作品を2006年に撮りました。その後、地元の商工会などの皆さんが僕の想いに共鳴共感してくださり、2008年に故郷の新潟で伝えたかった想いを込めた映画を撮らせていただくことになります。劇場公開用の映画はこのときが初でした。その作品を観たプロデューサーや、茨城などの地域の方から「自分たちの地域でもこういう映画を撮ってほしい」と声を掛けていただくようになりました。そうして、いろいろな地域で映画を撮らせてもらうようになり、今年で劇場用映画初監督から10年になりますが、1年に1本ぐらい映画を撮らせていただいています。テレビのドキュメンタリー番組では、伝えたいテーマから伝えなくてはいけないテーマを考えてつくるようになってきました。これまでを振り返って、人と人との繋がりの大切さに改めて気づかされます。映画を撮り続けることができるのは、その時々に出会った方々とのご縁のお陰だということをつくづく感じます。今年は、2009年にテレビのドキュメンタリー番組で取材させていただいた被爆ピアノを映画化する予定です。広島で爆心地から1・5キロから2キロほどの距離で被爆して焼け残ったピアノを持ち主から託された調律師の方が修復し、自ら4トントラックを運転して全国を回り平和コンサート活動をしています。その活動をモチーフにした作品です。映像の仕事をさせていただいてきて、今だからこそ伝えなければいけないことがあるのではないかと強く思うようになってきました。これからも強い想いを持ち続け、映画をつくり続けたいと思っています。今だからこそ、伝えなければいけないことを

元のページ  ../index.html#13

このブックを見る