東洋大学校友会報『哲碧』No.276
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Interaction of peキラリ交流ネットTEPPEKI12Interaction of peopleキラリ交流ネット(1948)年、国への移管後は内閣法制局や国会図書館、東京五輪組織委員会事務室として使われ、現在は世界中からの国・公賓を接遇(=おもてなし)する華やかな外交の舞台となる港区元赤坂の迎賓館を訪ねました。城南支部6名と他支部などからの参加で総勢16名となり、40代前半の高未来さん(城南)から間もなく卒寿をお迎えになる石井晴子さん(城南)まで、幅広い年代の女性が集まり、初めての方も皆さんの気配りによりすぐ打ち解けてくれました。今回見たのは本館と庭園(主庭・前庭)。外観全体が見える前庭から学習院初等科前を経由して目立たない西口から入場。何重もの警備と手荷物検査後本館に入館すると、当時の建築、美術、工芸各界の総力を結集させて建てられた館内に歓声が沸きました。明治期唯一のネオ・バロック様式の西洋式宮殿ですが、随所に凝らされた意匠に日本の伝統と誇りと自信が窺えました。 二次会は四ツ谷の「雪月梅」で懇親会。中華麺と4色の水餃子に、昼間からお酒も入り思いっきりはっちゃけて(他のお客様、申し訳ありませんでした)、あっという間に時間は過ぎました。解散後は校友会や女性連絡会に何らかの思いを抱いて家路に向かわれたのではないかと思います。皆さんのご理解とご支援を得て盛会裏に終了しましたことに感謝申し上げます。この「つどい」は女性連絡会からの支援を受けて年1回開催しています。女性連絡会の意義と目的を確認しあいながら校友の輪と和を広げ、卒業生同士の連携と縁あって人生の一時期を共に過ごした母校・東洋大学で出来た絆を縦横に紡いで行く一助になればと思っております。今後も皆様に喜んでいただける企画を開催して参る所存です。今まで未参加だった方も一歩踏み出して、共に楽しいひとときを過ごしませんか?今の昔ながらの風情を残す盛岡の奥座敷『つなぎ温泉』髙橋但馬1999(平11)法学部つなぎ温泉は、盛岡市唯一の温泉観光地である。そして、つなぎ温泉といえば御所湖。この二つの名前の由来を紐解いていきたいと思う。1889年(明治22)4月1日町村制施行に伴い、西安庭村・鶯宿村・繋村・南畑村の計四か村が合併して南岩手郡御所村が発足。1896年(明治29)3月29日の合併により岩手郡御所村となり、1955年(昭和30)4月1日昭和の大合併により御所、雫石、御明神、西山が合併し新雫石町が誕生したが、6カ月後の同年10月1日付で繋地区が雫石町から分離し盛岡市に編入合併した。この辺りが旧御所村だったことから御所湖の名前になった。御所村の名前の由来はというと、「御所」の名は、南北朝鮮乱時代の南朝方、北畠顕成の子北畠顕忠が「北畠少弐」を名乗り、奥州岩手郡に下向して雫石の地に居館構えて「滴石御所」と名乗ったことによるとのこと。私の先祖は、舘市久右衛門但馬家を宗家として滴石(雫石)城主戸沢政安の側臣であったが、1540年(天文9)戸沢氏が南部高信に改められ落城し角館に去る際、戸沢氏遺臣として帰農、氏を髙橋と名乗り、その後、繋村や御所村の肝入り(村長)として活躍したといわれている。因みに先の大戦最後の御所村の村長が私の曽祖父「髙橋清次郎」である。終戦に際し、公職追放となり失職したが、合併に向けて大いに尽くしてきたと聞いている。さて、つなぎ温泉の名前の由来はというと、平安末期の康平年間(1058~65)、源義家が安倍貞任を攻めた時、本陣を「湯の館」(現岩手県盛岡市繋温泉(つなぎ温泉)南方の山麓)に置いた。この時、義家は温泉が湧いているのを発見し、愛馬の傷をこの温泉で洗うと快癒したので、義家も愛馬を穴のあいた石に繋いで入浴したといわれ、以来つなぎ温泉と呼ばれるようになったと伝えられている。1189年(文治5)関東御家人の一人である工藤小次郎行光は、奥州合戦の際に源頼朝の軍勢に加わり、藤原泰衡、源義経を衣川舘で征伐した。頼朝帰還の折り軍功により岩手郡厨川一帯地頭職(荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理する職)任ぜられた。この工藤小次郎行光に仕えていた者湯守安楽院(佐藤家)がつなぎ温泉の湯守として現在に至るまで代々名湯を守っている。湯守には次の様な文書も残っている。『壱歩判壱両者 滴石之内 繋湯役之御金、承応元年分上、慥請取納之也。』これは家老連判になっており、

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