東洋大学校友会報『哲碧』No.276
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温故知新哲学堂公園と井上円了その4TEPPEKI15知られざる巣鴨明治39年6月28日、私立哲学館大学は私立東洋大学と改称 明治39年1月、井上円了は、前田慧雲を第2代学長として業務を引き継がせ、円了は名誉学長、財団の顧問となりました。その年の6月28日には、私立哲学館大学は私立東洋大学と改称され、7月に財団法人の設置も認められました。円了、哲学堂を拠点に哲学堂の経営と終身教会の運動を進める  大学を引退した円了は、人生第3期の活動として、哲学堂を拠点に哲学堂の経営と終身教会の運動を進めるために全国巡講を再開します。円了はこの地を国家社会への報恩感謝として、向下門哲学の拠点とするために、「精神的修養的公園」とし、先に哲学館大学内においていた「修身協会」の本拠地としたのです。 明治42年には、第16スポットで、哲学堂のシンボル塔としてひときわ目立つ六賢台が建立されました。この建築物は、内部が三層で、外観は二層の塔になっています。一辺が一間の正六角形でつくられています。屋根の煉瓦の一端に天狗がついているのは、建立した当時、この横に天狗松があったためです。その台上に、6人の大賢を奉崇してあるので、六賢台と名付けました。 四聖堂世界的な4人の聖人を崇めているのに対して、六賢は東洋的とし、日本、中国、インドの3国より2人ずつ選択し、奉崇しました。日本では、聖徳太子・菅原道真、中国では、荘子・朱子、インドでは、龍樹・迦毘羅の6人です。 三階には、この六賢の肖像を篇額として台上にかけ、その中間に小鐘がつるしてありましたが、今はありません。なお、肖像画は、修復されて無尽蔵に展示されています。東洋大学にも近い巣鴨だが、我々学生時代どれだけ知っていたか。せいぜい駅周辺の喫茶店やコンパの居酒屋くらいではないだろうか。とげぬき地蔵尊・高岩寺や江戸六地蔵尊・眞性寺の名を挙げられる人は優秀な方だ。昨秋、校友会女性連絡会と城東支部女性の会共催で、「歴史と癒しの街・巣鴨」の散策を実施し、その折、高岩寺の来馬明規現住職に法話を伺った。とげぬきの由来とご自身が力を入れている「禁煙活動」をミックスした面白い話だった。現住職の祖父・来馬道断住職は、校友会の副会長を務めた方であり、約60年前、わが大学社会学部の塚本哲教授と「とげぬき相談室」を創設したことでも知られており、大変、縁が深い。さて、巣鴨は江戸時代から造り菊の発祥地であり、「菊見ひとり案内」や「菊の道連」という双六形式の案内書まで出たほど賑わった。また、明治時代、30数か所に牧場があり、千頭もの乳牛を飼っていた。その一つの牧場主の子孫が城東支部にいることは後で知った。つまり巣鴨は東京市中心に近く、荷車で配達するには、ちょうど良い距離だったのである。また、近郊で土地が安かったこともあり、明治時代後半、学校や施設が次々移転してきた。明治女学校は、巌本善治と若松賤子(『小公子』の訳者)による。ここの卒業生では、自由学園を創設した羽仁もと子、新宿中村屋の相馬黒光、作家の野上彌生子など優秀な人材を輩出した。また、石井亮一は「滝乃川学園」というわが国初の知的障害者施設を、留岡幸助は感化教育の「家庭学校」を、長谷川良信は「マハヤナ学園」というこれまたわが国初のセツルメント活動を、丸山千代は「西窓学園」に生涯を捧げスラムの母と言われるなど社会福祉先駆者が多数活躍した。今も私立高校で名を馳せる十文字こと創設の「十文字学園」、松平頼壽の「本郷学園」なども巣鴨で誕生した。巣鴨で20年程タウン誌を毎月編集・発行し、巣鴨の歴史と文化を掘り起こしていたが、過日引退、タウン誌も閉刊とした。舌足らずの文章解消に、まだだいぶバックナンバーが残っているので、ご興味のある方はご一報を――。  山田 眞理子 記6人を「六賢」として祀ってある六賢台園内に咲く約100本の桜高岩寺現住職を囲んで女性連絡会の皆さん(昨年11月24日・高岩寺会館にて)哲学堂のシンボル塔としてひときわ目立つ六賢台、6人の大賢を奉崇

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