東洋大学校友会報 第248号
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12TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 248東洋大学の小説家神田 重幸 かんだ しげゆきかつて東洋大学は歌人大学、詩人大学と呼ばれたことがある。明治から大正時代にかけて正富汪洋、山上ゝ泉らの哲学館詩歌人や尾上柴舟の指導による短歌会「霜月会」などが文芸運動の先鞭となった。その後大正期における文芸研究会の興隆のなかで、大正十年(一九二一)に東洋大学専門学部文化学科が新設され、これまでの哲学、宗教の大学というイメージが一新された。文壇で活躍する作家たちを講師に迎えての創作指導が詩人、小説家を目ざす若者にとって大きな魅力となった。「詩人大学」の名を広めた岡本潤、勝承夫、小野十三郎らも文化学科の出身であったが、第一回入学生の小説家野溝七生子は、「文化学科は東洋だけで、また講師陣容も実に粒揃いだったから」(「東洋大学新聞」(昭和25・7・10)と志望動機を語っている。 文芸研究会時代には「白山文学」「新声」などの文芸誌が創刊され、以後特に第二次「白山文学」を創刊した杉山捷雄が同誌に『母心誕生』(大正14・11)を発表して川端康成に注目され小説家として活躍。そうした気運が昭和期に入り、花村奨(土岐愛作)、殿内芳樹、坂口安吾らの同人誌「東洋・文科」(昭和7・6創刊)での活動につながった。 東洋大学出身の小説家たちをみると、大半が近代文学史の上で私小説から戦後の無頼派文学の流れにつながる人が多い。破滅的な実生活の喘ぎを描いた葛西善蔵はその代表である。東洋大学に一時在学し、後に広津和郎らと「奇蹟」を創刊、『哀しき父』(大正1)『子をつれて』で私小説作家の地位を確立した。生涯裸の人生に生きた作家であり、文学にみられる苛烈味には不思議な生動感が溢れている。野溝七生子は在学中に、懸賞小説『山くちなし梔』(大正11)や『女獣心理』を書いて注目された。ダダイスト辻潤に憧れ、「女人芸術」にも参加して女の型を破った奔放な生き方を貫いた。私小説的色彩の濃い『山梔』は性による役割分担を批判的に描いた作品で、今日のジェンダー時代の先駆をなした。詩人勝承夫を知って文化学科に入った木山捷平は、太宰治らの同人誌「海豹」(昭和8・3創刊)に、在学中の生活に材を得た『侏儒の友』や『うけとり』などを発表、ユーモアと哀感にみちた私小説で注目された。戦後の『大陸の細道』は、強靭な庶民精神に徹した戦争批判が秘められた作品として話題となった。 東洋大学出身の小説家として、坂口安吾は広く知られている。落伍者意識の反動から求道的生活に憧れて東洋大学に入り、在学中同人誌に『母』を書いたが、後の『勉強記』『二十一』などに在学中の生活模様が描かれている。「ファルスの文学」を書いて文壇に出、その後自伝小説『吹雪物語』(昭和13)『日本文化私観』などで自身の方向を見定め、戦後は堕落、淪落による人間生活を説いた『堕落論』(昭和22)『白痴』『桜の森の満開の下』などを書き、一躍時代の寵児となり無頼派作家の一人と称された。たえず乱世の世相に挑戦し、文学はじめ現実社会の一切を飲み込み一気に爆発させたその主張は、「聖なる無頼」の闘いでもあった。好きな作家葛西善蔵の学んだ大学ということで入った久保喬は、川端康成、太宰治との交わりを修業の場とし追憶風の小説『白い時間』(昭和8)を書いた。やがて児童文学に転じ、長編童話『光の国』で脚光を浴び、独自の「夢、現、的、童話」を提唱した筆者も親交のあった作家である。 その他出身の主な小説家として、古くは高嶋米峰、岩野泡鳴の高弟大月隆仗、その後に民衆芸術を標榜し作品集『民衆の為に』がある丹潔、懸賞小説『半生』や『釣つるべ瓶の音』で女流文学賞を受賞した大谷藤子、「海豹」の同人で小説集『番人』の神戸雄一、安吾と親しく『会津士魂』などの歴史小説を書いた笹本寅、中山義秀に師事して歴史物を書いた永岡慶之助らがいる。近くは内田康夫が『死者の木霊』『遠野殺人事件』など多くの推理小説で、長嶋有が家族の求心力を描いた『猛スピードで母は』で芥川賞を受賞、『祝福』ほかで旺盛に活動している。特別昭和15年長野県生まれ40年東洋大学文学部国文学科卒業47年東洋大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程満期退学42年〜45年東洋大学文学部助手45年〜62年関東短期大学講師・助教授昭和62年〜平成23年3月東洋大学短期大学助教授・教授・東洋大学教授平成23年7月東洋大学名誉教授専門は日本近代文学主な著書 『島木赤彦周辺研究』『アララギ派歌人高田浪吉』(上下)『島崎藤村詩への招待』『島木赤彦論 文芸の成立と歌風の展開』など

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