東洋大学校友会報 第248号
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22TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 248特別寄稿 競技動機は、身近にいた3歳年上の兄貴を超えることから始まった。朝夕の食卓で、兄貴だけ御飯の上に小さなマーガリンがのる。なぜと父に尋ねたら、陸上競技をやっている、そのための栄養剤という。美味しそうに食べる兄貴、年下の妹や弟に一口もくれない。父との約束、兄貴に勝ったら自分の御飯の上にもマーガリンをのせてもらうこと。競技開始11歳(昭和30年)小学校5年、執念を持って兄貴に立ち向かった。起伏のある田舎道を根気強く走り続けた。腹筋や背筋など勝つための努力を重ねた。半年くらいで兄貴を超えてしまった。 龍東中学校に進んだがすでに敵なしとなった。一人で頑張っても苦しいことばかり。楽しそうに活動しているテニス部や相撲部に移籍した。ケガや腰痛のため整骨院に通っていた頃、再度陸上部(奥城尚義先生・広瀬出身)に勧誘され再入部。中学3年(昭和34年)、全国中学校放送陸上競技大会に出場し3000m競走で優勝、喜びと感動を初体験した。勝利者とは、苦しい練習を積み上げ、耐えることにあると思った。大分県中学校駅伝に出場、1区を力走、宇佐郡チーム優勝等、数々の大会で優勝の体験ができた。 四日市農業高校に進み(当時、四農は、駅伝県下2位)、5000mを主に走った。当時の先生は、校長・上田伝吾、部長・永松藤生(長洲出身)、コーチ・安部忠夫(四日市出身)。高校での主な大会出場は、全国インターハイ、岡山国体。昭和37年の第13回全国高校駅伝競技大会(大阪)、大分県代表で1区力走4位で2区走者に渡した。まずまずの成績を残せた。 大学には、大分県陸上競技協会理事長・池中康雄先生(中津市出身)の「東洋大学に行け」の一声で入学した。大学1年、全国大学選手権(大阪)3000m障害に初出場、6位入賞した。その時から3000m障害を専門種目とした。大学時代の主な大会は、第50回日本選手権大会(国立)2位、メキシコ国際大会7位、第5回アジア競技大会3位、東京選手権4連勝、箱根駅伝4年連続力走。 ところが大学3年5月、3000m障害水濠を飛び着地した瞬間、外側じん帯(膝の筋)を切断、医者から再起不能を宣言され、地獄を体験した。挫折しかける。田舎人間を励ましてくれたのが、姉夫婦、妹、奥沢善二さん(東洋大OB・東京オリンピック出場)。今も忘れられないのが姉の夫からの言葉で、「根性、情熱の無い人生を歩いても仕方ないだろう。己に克ち再起しろ」と活を入れられた。逆境からはい上がった。人の何倍もの補強運動の強化、人知れず夜道を走り込んだ。負傷してから1年、第50回日本選手権3000m障害に出場。独走、独走、しかし猿渡選手(当時、日本記録保持者)の猛烈な追い込みにあい、優勝は逸したものの同記録で2位、目の前が明るくなった。この入賞に陸連からアジア大会、メキシコプレオリンピック(メキシコ)大会代表の朗報が届き、姉夫婦、妹と再起を喜んだ。 昭和42年大学卒業と同時にNTN東洋ベアリング㈱に入社。昭和43年9月の第52回日本選手権の結果、メキシコオリンピック出場選手の名前が1年後輩の鈴木従道君(1万m・NTN東洋ベアリング㈱)とともに発表され、妻と3人で喜び合った。陸上競技のオリンピック出場者は、男子選手19名、監督・コーチ3名の計22名で女子選手はゼロ。10月14日、3000m障害の予選、私は2組出場7位で残念ながら予選落ちとなった。 その後実業団での戦績は、昭和42年ユニバーシアード東京大会3位、第50回から56回まで7年間、日本選手権で3位以内に連続入賞。昭和45年、46年の2年間、全日本実業団駅伝で区間賞獲得、昭和46年第6回アジア競技大会で優勝。昭和48年29歳、引き際を大事に選手生活に別れを告げた。 好きな言葉…„努力は無限"回想 男子3000m障害三浦 信のぶよし由(旧姓:松田)メキシコオリンピック(昭和43=1968年)3000m障害日本代表昭和19年5月大分県宇佐市生まれ 42年3月経済学部経済学科卒業4月NTN東洋ベアリング㈱入社(現在:NTN㈱)平成16年5月定年退職 21年宇佐市ゲートボール協会 副会長 現在に至る

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