東洋大学校友会報 第250号
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14TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 250大いなる足跡を残した東洋大生ボランティア昭和13年3月岩手県遠野市生まれ昭和35年3月文学部国文学科卒業在学中は卓球部、最終学年には体育会本部会計現職東洋大学校友会 宮城県支部長東松島市社会福祉協議会会長東松島市商工会 理事東松島高等学校 評議員東松島ライオンズクラブ 終身会員セブンイレブン矢本インター店 オーナー著書 『遠野・文春・阪神』 佐々木 章 ささき あきら校友大きな爪痕を残した「東日本大震災」から間もなく1年、被災地では未だに復旧作業に追われている地域もあるが、復興に向けて力強い一歩を踏み出した所も多い。 私は現在、被災地・宮城県東松島市の社会福祉協議会の会長職にある。地震発生時の3・11午後は、年度末でもあり新年度に向けての幹部職員による理事会、評議員会に提案する事業計画、予算等の議案の最終確認の最中であった。 発災日夕刻、被災者が救急車で、消防車で、乗用車で続々と当社協に運ばれて来た。辺りが真っ暗な中、発電機で玄関を照らし明るかったこと、平成15年の宮城県北部連続地震の際、福祉避難所として機能したことが知れていたためである。私は直ちに“非常事態宣言〟を発し、24時間体制での支援シフトを敷いた。 次々と運ばれてくる人の衣服はずぶ濡れの上、折からの雪で寒さに震え、低体温症の人が大部分であった。搬送されて来るたび、ヘルパーは総がかりで必死に蒸しタオルで体をさすり続けた。2日目からは各施設に一旦非難した人の内、要介護者、車椅子利用の方々が続々と社協に送られてきた。トイレにしろ食事にしろ、専門的な知識と経験を必要とするため、通常の避難所では対処しきれないのである。集会室には簡易ベッドが並び、畳敷きの談話室は布団で足の踏み場もなく、玄関奥のロビーにも毛布を敷いて避難者を収容した。社協の一般業務は完全にストップし、職員の不眠不休の避難者支援活動が続いた。 3月下旬、校友会本部から宮城県支部宛に見舞金が送られて来た。お礼の手紙の中で私は次のようなことを書いた。「中越地震の際、長島村長(現衆議院議員・東洋大学理事長)指示で全村避難の山古志村(当時)に、駅伝競走部の合宿所の縁で東洋大の学生がボランティア活動をしたことを聞いている。当方は今回の大震災で壊滅的な被害に遭っている。私は社協会長の立場で災害ボランティアセンターの総責任者でもある。何とか学生を派遣していただけないか」と。 早速、福島校友会長から反応があった。大学当局も乗り気なのでやりましょう、と。何回かの電話でのやり取りの後、5月3日には大学院生・本間大助君をリーダーとする5人のメンバーが先遣隊として来市。ボランティアセンター運営の仕組みをおさらいした後、悲惨な現地を視察し、汗を流して帰っていった。5月30日には国際地域学部・藤井敏信学部長をキャップとする12名のチームが来市し、阿部秀保市長から直接被害状況の説明を受け、現地を視察して帰った。 この間にも学生部・正木透課長と学生派遣の話は順調に進み、8、9月の2か月間、4泊5日を1クールとして、各25名の15クール、延375名の大部隊の派遣が決まった。私は宿泊所、食事、風呂、学生移動用車両確保等受け入れ準備に奔走し、何とかクリアした。 8月1日、第1陣が到着し、東洋大生によるボランティア活動がスタートした。一般家庭のドロ出しや清掃、学校の除草・整地、仮設住宅での植栽・お茶会、夏祭りでの焼きそばづくりやビール販売、音楽祭ではタイムキーパーやら交通整理など、地域のあらゆる要望に応えて活動した。 箱根駅伝で大いにはしゃぎ、三連覇成らずで悔しがった「東洋大OBの佐々木」を仲間内では知らぬ者無く、東洋大ボランティア支援を受けた多くの市民から感謝の言葉を頂戴した。竹村牧男学長は2度も来市し、被災地を視察し学生を励ました。 揃いのTシャツには「東北復興応援プロジェクト・東洋大学」とあり、走り回る2台のワゴン車の前部には大きな「東洋大学」の横断幕が取り付けてある。それが2か月間、否が応でも東松島市民に強い印象を与えた。最終日の9月30日、私は学生に対するささやかな感謝の気持ちを表すべく、宿泊所を管理する役員の方々にお手伝いを願い、「さよならバーベキュー大会」と称して昼食時に焼肉、焼きそば、おにぎりを振る舞った。学生諸君は腹いっぱい食べ、満足して帰路に就いた。

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