東洋大学校友会報 第251号
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16TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 251負けてたまるか、証を残した教師の奮闘記校友和38年4月、胸を膨らませて高校の教壇に立った。しかし、右も左も分からない若造にいきなり1年生の担任命令が下った。私と一緒に新人で教壇に立った者は10人程度で、東洋大学の新卒もいたように記憶している。 その中に女性が一人。共学とは言うものの大半が男子生徒である。そんな中で荒っぽい生徒を相手にするのは、特に女性にとっては容易ではない。授業が始まってまもなく、女性教師のスカートめくり事件が発生。その被害者A先生が泣きながら職員室に戻ってきた。 私は教室に走った。誰も口を割らない。私は「女の先生を泣かせるなんて最低だぞ。それが男児たる人間のすることか。4月の最初の時間に予告しておいたことを覚えているな。それを実行する」と激怒して言った。50余人の生徒を廊下に一列横隊に整列させて、ひとり一人に問い質したが、それでも誰も答えなかった。そこで全員に空手の突きを一発ずつ見舞った。もちろん、勝手に見舞ったのではなく、ひとり一人に「いいな、覚悟は」と確認しながら。 今なら大変、懲戒免職になる行為だが、当時は誰一人として告げ口をする生徒はいなかったし、家庭で親にその話をした生徒もいなかった。 これで一躍„空手の名古屋〝と有名になった。2年生の大ボスも退治した。授業がしやすくなったと他の先生から喜ばれる始末。校長や理事の耳にも入ったがお咎めはなかった。生徒の状態が一変して荒れが収まった。 夏の甲子園予選が始まった。私のクラスから、1年生ながらレギュラー選手が一人出た。全校応援と言うので、1500人ほどの生徒が野球場に集合した。ところが、応援団もブラスバンドもない。ただ一投一打に拍手するだけ。幸いこの試合は勝利を収めたが、「何のための全校応援だ」と内心憤慨した。勝ってもあまり嬉しくはなく、かえって悔しい思いが募るばかり。 翌朝、朝会前に「野球の応援団を作らせてください」と校長室に飛びこんだ。校長がS理事に話しておくからと言うので理事室に行った。すると、S理事は「校長から話は聞いた。やってくれるか」と言う。そこで団員集めと指導法の話をし、さらに試合後に一杯60円のカツ丼を団員にというお願いもしたが、S理事は全て快諾。 早速、毎授業の終わりに説明と勧誘を行った。初日は6人が集まった。声の出し方、手の振り方などを私が指導した。2日目で団員は10余人になり、3日目の第2戦、スタンドで応援した。初めは、なかなかうまくいかなかつたが、途中から呼吸が合うようになった。2回戦も勝ったので、学校に帰ってカツ丼を皆で食べた。 元気を取り戻して練習していると、2年生のN君が「俺も入れてください」とやってきた。彼は転校生で、前の学校では応援団員だったというので、直ぐリーダーに。応援団を結成して3試合目で、団員は約20人。立派な応援団となっていた。 2学期に学校側と教員の内紛が拡大し、私は嫌気がさして結局転勤した。しかし、応援団は翌年も結成された。私が残した一つの財産が後々まで続くことになった。僅か1年だったが、後に二人の教え子の結婚式に招待された。名古屋 茂郎 なごや しげお昭昭和14年9月新潟県生まれ昭和38年3月�文学部国文学科卒業 私立・公立高校、大学等の教員として50年目を迎え、現在も講師として現役。社会人講座4つ担当。和歌文学会員・西行学会員。高校野球部顧問として甲子園出場1回、ベスト4。 千葉県高校教職員の会「白山会」を創設、発起人・事務局長を務める。千葉県高校教研国語部会事務局長を6年務める。東洋大学校友会千葉県支部幹事長を6年務める。主な著書 � 『国語教育の現場から』(笠間書院)、『山家集の風土と風景』(人間の科学社)、『ハンドブック 百人一首の旅』(共著・勉誠出版)ほか。

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