東洋大学校友会報 252号
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10TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 252災害の歌校友のたびの大震災に際し、歌壇においても災害歌といわれる歌が多く詠まれ発表された。丁度、百年前の大正十二年(一九二三)の関東大震災においても多くの歌人が震災歌を詠んでいる。 若山牧水は、九月一日の関東大震災に伊豆の西海岸の宿で遭遇し、大した被害はなかったけれども、沼津の自宅が心配なので翌早朝二日に船で帰った。しかし、沼津も大したことはなく、留守宅一同元気であったという。 牧水は、当時三十九歳、「余震雑詠」として八首を詠んでいる。その一首○朝宵に相見る妻を子供等をまもりつつかなし地な震ゐのしげきに この歌から推察して、沼津においても余震がかなり続いたことがわかる。 窪田空穂は○地はすべて赤き熾お火きなりこの下に甥おいのありとも我がいかんせむ テレビなどのない時代、空穂は九月二日、震動の少なくなったのを見計らって、神田猿楽町の甥の家あとを見に行ったと詞ことばがき書がある。自宅は幸いに被災を免れたという。 昨年の東日本大震災では、地震や大津波、原発による放射能被害など、なまなましい現場が即時にテレビで放映され、茶の間や職場へそのリアルな光景が映し出された。歌は、現地で直接被災したか直視した人よりも、現地から遠く離れた場所でテレビによる映像を見て詠まれたものが多い。 齋藤茂吉はこの時ドイツに滞在し、九月三日、現地の夕刊で東京の震災を初めて知った。○大おお地な震ゐの焰ほのほに燃ゆるありさまを日々にをののきせむ術なしも 齋藤史ふみは、昭和二十年の東京大空襲で○われは女にてこの空襲の朝々も髪よそほひすしばらくが間ひま 會津八一は、昭和二十年四月十三日、空襲により自宅が焼け「焦土」と題して○ひともとのかさつゑつきてあかきひにもえたつやどをのがれけるかも 今から百年前、突然襲った関東大震災では、マグニチュード七・九と、今回の東日本大震災の九・〇から見るとやや低いが、約十万名の死亡者があり、四十四万七千の焼失家屋があった。これは、首都圏の人口密集地であったことと火災による死亡者が圧倒的に多く出たためである。東日本大震災では、約一万六千名の死亡者と約三千六百名の不明者が出ている。深く哀悼の意を表し、合掌するのみである。 私の愚作震災歌が、昨年末、若山牧水の故郷宮崎県日向市が、市制六十周年を記念して開催した、第一回青の国若山牧水短歌大会において、思いがけず全国約四千二百首の応募中より最高賞に選出された。○大津波これほど蹂じう躙りんされたるも海に怨みをもつ人はなし*****************○泣きながら家族を捜す被災の子見らるる者の眼は見る者を射る � 「かりん」桜川冴子○人知には限りあることまざまざと放射能漏れの原発が示す � 「波濤」高橋睦世 中越地震の惨状を詠んだ○地な震ゐの後 地つちにひびきて降る雨の 三夜やまざれば 人さらに死す �岡野弘彦齋藤 芳攝 さいとう ほうしょうこ昭和15年富山県生まれ昭和38年3月文学部国文学科卒業 在学中は書道研究会に所属現在書道一元會副会長歌誌「創作」会員 日本歌人クラブ会員高岡市文化財保護審議委員浄土真宗本願寺派浄永寺住職著書 歌集「射水川」「合掌の郷」他個展 地元や東京で数回開催

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