東洋大学校友会報 252号
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TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION●25229●昭和41(1966)年3月受験者数1万人を突破昭和41年度入学試験 高度経済成長期に、日本の私立大学と学生数は大きく増加したが、それは特に昭和40年前後に著しかった。東洋大学も、昭和34年度以降、学部の新設や学科の増設により、志願者数および在学生数がともに増加していった。昭和41年度の入学試験では、ついに受験者総数が1万人を突破するにいたった。大学の創立125周年企画としてスタートした「『東洋大学新聞』で見る東洋大学の歴史」も今回の第7回が最後となる。東洋大学附属図書館は平成2(1990)年の『東洋大学新聞』第817号を所蔵しているが、終刊号がいつなのか正確な記録は残されていない。昭和40年代には200以上あった全国の大学新聞だが、数紙を残してこの時代にそのほとんどが姿を消している。全盛時代には私も日本学生報道連盟に所属し、全国の大学新聞に「わが国を代表する唯一の学生共同通信」と銘打って記事や写真を配信、多くの大学新聞に重宝がられ転載された。またのちにリクルートを創業させた江副浩正氏も学生時代には、全国の大学新聞を相手に自動車や生保、家電、商社などの求人を兼ねた大型広告を仲介する広告代理業務を展開しても成功を収めることができた時代だった。のちには過激な学生運動に紙面がのっとられ、純粋な学園内の記事などもほとんどが姿を消し、大学からの弾圧も多くなり学生にも読まれなくなったため、発行部数の減少や広告収入も半減し、学生新聞は休廃刊を余儀なくされていくことになる。現在は明治・中央・駒澤・東洋・国士舘・青山・日本・早稲田・専修・大東などの各大学でスポーツ新聞の発行が盛んで、関東大学スポーツ新聞連盟も結成されているという。� 羽島知之コラム本連載の終了にあたって(第661号 昭和41年4月8日)(第672号 昭和41年11月23日)●昭和41(1966)年11月東都大学野球 待望の1部復帰なる 東洋大学硬式野球部は、昭和41年東都大学野球二部秋季リーグ戦の10月9日対國學院大戦で勝利し、二部優勝を果たした。11月14・15日両日に行われた一部、二部入替戦で芝工大を連破、昭和36年秋に一部昇格を飾って以来10シーズンぶりに待望の一部復帰を達成した。●昭和42(1967)年12月教養課程の川越移転問題 学内に機動隊導入 昭和41年度の経営学部設置が、設置審査の段階で文部省から白山の狭隘なキャンパスでは十分と認められないとの指摘を受けた。そこで大学は経営学部一部教養課程の教育を工学部のある川越キャンパスで行うとしたが、これ以降、学生による川越移転反対運動が次第に激化、大学は昭和42年11月26日未明、理事側と学生側との会見に機動隊を導入して事態の収拾を図った。(第686号 昭和42年12月12日)

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