東洋大学校友会報 252号
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8TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 252羽島 本日は、東日本大震災の翌日から6日間にわたって壁新聞を作成し、被災者に地域の情報を提供し続けて、テレビや新聞、雑誌などのメディアでも大きな話題になった石巻日日新聞社の近江社長から、いろいろお話を伺いたいと思います。 近江社長が、石巻日日新聞社に取締役総務局長として就任されたのは、平成18年6月とお聞きしていますが、もともと地元は石巻なのですか。近江 父親は釜石の出身です。終戦後に石巻に移り住み、この石巻日日新聞社では専務までやりました。学生時代、私はあまり授業に出た記憶がありません。もともとサーフィンやヨットをやるのが好きで、そういう関連の仕事をしたくて大学卒業後に起業して、マリンスポーツ用品の製造・販売を24年間やりました。ですから、石巻日日新聞社に、いまのように関わるとは思ってもいませんでした。 本紙の創刊は大正元年で、今年100年を迎える歴史ある新聞ですが、私が就任した当時は、ずっと赤字続きでしたし、衰退しているという雰囲気がありました。ここには、全国紙やブロック紙がありますが、私たちの場合は、地域という括りのなかで、夕刊の「石巻日日新聞」と月刊の「いしのまきらいふ」を発行しています。他紙と競合しないマーケットでやらないと太刀打ちできませんから。 「石巻日日新聞」は、石巻市、東松島市、女川町をエリアとして1万4000部を発行していましたが、東日本大震災で購読数は7500部に減少して、経営はかなり厳しくなりました。現在は、これら新聞のほかに、東松島市と石巻市の「市報」の発行をしています。東松島市の市報は、震災前から提案して入札で落としたものですが、幸い、来年の3月までこの二つの「市報」で売り上げの20%を確保できることになっています。羽島 東日本大震災の際に号外として発行された「壁新聞」は、12日から17日までの6部がワシントンにあるニュージアムや横浜の日本新聞博物館などに寄贈、永久保存されるなど、大きな話題になりました。なぜ壁新聞にしようと思われたのですか。近江 壁新聞という名前は、後からついてきたもので、電気もなく、輪転機も水につかって動かなかったので、手で書くしかなかっただけです。 震災で家族を亡くした社員もいましたし、「自宅待機」としても家が流されてなかったり、3週間ぐらいずっとこの新聞社に泊まった社員もいました。 われわれは、地域の人たちと同じ立場にいましたから、家族の安否など被災地の人が何を必要としていて、何に困っていて、何が不安かということはよくわかります。そういう点で、壁新聞の内容も決まっていきました。 震災直後は、町中が本当に泥だらけで、避難所にも足を拭いてからでないと入れない状態でした。もともとこんなに壁新聞が話題になるとは思ってもいなかったので、風で飛ばされそうだったからと剥がしてきた前日の壁新聞などは、車の足元に敷いて、泥を落とすために踏んづけていましたよ。羽島 今回、突然の大震災に見舞われることになりましたが、石巻日日新聞社に就任する前は、ご自分で事業をされていたし、また、日日新聞社に就任されてからは赤字を黒字にする経営手腕を発揮されました。経営に関して、基本的にどのような考え方をお持ちですか。近江 石巻日日新聞社の経営がようやく安定してきたのは、私が就任してから4年目で、まずは、現場をちゃんと分析することから始めました。私が最初に社員にやってもらったことは、一つは掃除特別企画収録:平成24年5月30日(水)石巻日日新聞社 社長室石巻日ひ日び新聞の近江社長が語る地域復興にかける熱き思い近江弘一〔石巻日日新聞社代表取締役社長〕聞き手:羽島知之〔東洋大学校友会会長〕

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