東洋大学校友会報 No.254
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12TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 254放射能の恐怖のない社会を未来へ!校友011・3・11の震災・東京電力福島原発事故に対して、校友会からお見舞金を受け、非常に驚くとともに、感謝の念と恐縮の複雑な思いを抱いた。戦後、旧満州から内地(日本)に引き上げ、苦しい時代を生き、両親は貧しい家計から私に大学教育のチャンスをくれた。奨学生となり、卒業と同時に職を得て定年まで仕事を継続。結果、経済的自立ができた。校友会の会費納入はまじめにしていたが、それだけの会員だったので…。原発事故により相模原に避難していた時は、英米文学科の豊田先生や、多くの学友が連絡をくれた。何とありがたく、嬉しいことだったか。1年数か月後、三多摩の米田支部長から支部総会の折、東日本大震災のシンポジウムで「福島のいま」を語るようにとの連絡があった。当初、逡巡するも、原発事故に遭遇した人間にしか語れないものを伝えるべきだと考え決断した。でなければ、この悲劇が再び繰り返されてしまうと思ったので。原発事故から1年8か月が経過しようとする10月末、日中の秋晴れの中、新幹線で一路、和歌山市を目指した。車窓に流れる風景は、秋ののどかな陽ざしに溢れ、人も、車も、家屋も、いつもの景色の中に佇んでいた。田んぼは、豊かな実りの後のほっとした風情で静かに次の季節を待っている。じっと目を凝らして「フクシマ」を探す。しかし、そこに「フクシマ」はいなかった。帰路、夕方から夜になる時、新大阪駅では老若男女が、震災に気遣ってか照度を落とした電気の中を、何事もなかったかのごとく行き交っていた。色とりどりの光り輝く夜景。そこにも「フクシマ」はいなかった。それと同時に、恐怖が胸を締め付ける。このすべての、素晴らしい景色も自然も、一度の原発事故で死の町に一変してしまうのだと。原発事故の避難者は、まだ先のことは何も見えず、わからない状況の中で日々命をつないでいる。帰ることのかなわぬ、あの静かで、時の流れの穏やかな故郷へ思いを馳せながら…。国も県も町も、賠償と除染のことばの競争。何ら展望の見える提案をできずにいる。故郷を奪われ、人生を奪われた者に、何を賠償し、どこをどのように除染するというのだ。自然溢れる大地は、放射能にまみれた上、その表土は引きはがされ褐色の肌をさらし、汚染された草まじりの土は黒い袋に入れられて野ざらしに。切り倒した木々たちを、どこに葬る気なのだ。深呼吸できない空気はどうするの。汚染された水を垂れ流し、降り注いだ雨を集めた川の流れは海にたどりつく。海と魚はどうするの。放射能を甘く見てはいないか。人間は勿論のこと、自然をだいなしにしてしまう原発を次の世代に「負の遺産」としてはいけない。原発のない町であろうと県であろうと、一旦放出された放射能は、あらゆるものを汚染してしまう。その毒性が半分になるのが早くて30年のセシウム。しかし放射能はセシウムだけではない。未来を思うと胸の痛む日々。モニタリングポストの立つ仮設住宅で2度目の冬を迎える。これが棄民でなくて何なのだろう。国策による戦争と原発事故で、2度棄民になった者への深い傷の賠償は、„脱原発〝を国是とすること。先の戦争の時のように「その責任」に対して口をつむぐことは許されないと、日々考えている。(2012・11・22)橘 柳子 たちばな りゅうこ21939年中国・大連生まれ1945年ハルピンで終戦を迎える1963年文学部英米文学科卒業2000年福島県(双葉郡)にて教育職員を定年退職現在東日本大震災・福島原発事故により、福島県本宮市で避難生活

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