東洋大学校友会報257号
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12TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 25713.5級 行間251行17字×1段29行×4段=1P1972字地域の力をつなごう校友西村 禮冶 にしむら れいじ昭和19年4月兵庫県生まれ昭和42年3月社会学部応用社会学科卒業昭和42年2月東洋観光興業株式会社入社(東京都)平成元年1月ハートプランニング設立平成20年11月兵庫県養父市議会議員(2期目)通網の整備が進み、IT化で情報格差は埋まった。反面、疲弊する地方では各種課題と取り組むが、その道は険しい。Uターン後、各地でまちづくりのお手伝いを生業としながら、もう一歩踏み出せないところにいる自分がいた。議会という世界に飛び込んだのは64歳だった。意気は高くも苦(?)学生オリンピックを翌年に控え、厚い鉄板の上を都電が走っていた昭和38年、東洋大学に入学した。スーツ姿の新入生もあり地方出身の私には驚きだった。有名大学に挑戦し続けて叶わなかったり、2~3年働いてから入学した人だが、いずれも優秀な同級生たちだった。他大学の受験を失敗した人の中には、自らを貶めるかのような自己紹介もあった。私が「東洋大学が第一志望だった」というと、広報学ゼミの三原信一教授からお褒めいただいたのだが、後がいけない。4年間のゼミは苦い思い出の方が多い。野球部は東都大学リーグ二部に甘んじていた(4年秋に一部昇格)。変わりゆく時代の4年間短期大学部に一部国語・英語・観光学科が開設された年で女子学生が増え、上級生たちは華やかなキャンパスを歓迎していた。高学歴社会に入るころで、卒業までに学舎の建て替えが進み、学生数は毎年うなぎのぼりだった。東京の私学の中で学費は安い方だった。焼夷弾攻撃を受けた鉄筋剥き出しの新聞学会ビルは、下宿兼研究室でもあった。『東洋大学新聞』の月2回発行が定着した時期で、書くことや広告取りの楽しさ、そして怖さも味わった。駅伝取材は解説者付の豪華版新聞の箱根駅伝取材では、勝承夫常務理事(詩人・その後理事長)の車に同乗させていただき、池中康雄さん(元マラソン日本記録保持者)の解説付だった。昭和35年に宍戸英顕、奥澤善二選手らで3位入賞したがその後低迷。現在の優勝候補№1など予想もしなかった。勝先生は『東洋大学新聞』創刊メンバーだった。新聞学会のコンパにも来てくださり、酔うとご自分が作詞された『歌の町』の替え歌♪飲む子の住んでる飲む町は、楽しい楽しい酒のまち〜♪を、いつもご一緒させてもらった。異文化との出会い卒業後入社した会社は、全国で旅館・ホテル・レストラン等を経営しており、好んで地方勤務が長くなった。気候風土や歴史から培われた文化と、そこに暮らす人々の営み。和食、洋食、中国料理の達人たちとの出会いもあって、異文化に触れたことは財産となった。校友会栃木、山梨県支部の総会にも出席させていただいた。Uターン後、各地でまちづくりのお手伝いを生業としてきたが、身体に沁み込んだものを活用することができた。何かを求めようとする時、臭覚が働くというか、どこかで何かが導いてくれた。これまで出会った人々の存在も大きい。大学卒業時に持ち帰った専門外の「社会調査ハンドブック」は私のバイブルであり、いまもデスクの脇に置いてある。地域の力をつなぐ地方分権が進む中、地方自治体は自らの責任と判断で、地域住民の負託に応えることが求められているが、住民の目は中央に向いている。地方議会は活発な議論を進め、住民に開かれた議会に転換する機運が生まれたがまだ弱い。住民自治の再構築に向けた取り組みを住民とともに進め、地方から発信する仕組みづくりが求められているのではないか。古い慣習から抜け出して「議会の見える化」に取り組み、地域を勇気づける責務があるのだが、そんな声をつなぐことができないだろうか。交

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