東洋大学校友会報259号
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TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION●25915沖縄経済の自立的発展を望む校友池城 光男 いけしろ みつお昭和24年 沖縄県宮古島生まれ昭和48年 経済学部経済学科卒業昭和48年 百貨店三越系不動産会社に就職昭和57年 大興不動産商事株式会社創業 代表取締役社長昭和62年 琉球綜合学院創立 学院長平成9年 那覇新都心開発推進協議会会長沖縄県街づくり推進協議会委員平成10年 那覇新都心区画整理事業審議会委員平成12年 沖縄宮古郷友連合会 副会長   現在 大興不動産商事株式会社 代表取締役会長営する大興不動産商事株式会社の本社社屋は、那覇新都心・おもろまちにある。ここ新都心の開発にあたって、米軍基地返還跡地の利用計画、地権者との土地区画整理事業などで審議会委員や那覇新都心開発推進協議会会長として関わってきた。この地域は戦後、米軍の銃剣とブルドーザーによって強制接収され、米軍基地(住宅地)として長年使用されてきた。基地返還後、15年かけて那覇新都心区画整理事業(214ha・約65万坪)の宅地造成が行われた。返還跡地の利用計画のモデルとして、各種施設の先導的整備が総力を挙げて進められてきた。現在、公共機関や各種大型商業施設などが立ち並び、沖縄県の新しい拠点として、発展目覚しい街となっている。私は、沖縄県宮古島城辺町のサトウキビ栽培農家で生まれ育った。大学受験時、合格していた東京の獣医大学を家庭の経済的理由で断念。当時、政治経済担任の垣花忠信先生に進路相談し、忠信先生の母校・東洋大学に進学を決めた。その年のサトウキビ収穫を終え、船で昭和44年3月21日、宮古島漲水港を出発。那覇港で乗り継ぎ、3月26日、夢と希望を胸に、東京晴海埠頭に立った。船は季節風による荒波で奄美大島名瀬港に3回も引き返し、多難の航海だった。東洋大学には新聞社の奨学金を受け新聞配達をしながら学んだ。配達は毎日午前3時頃から自転車で行なった。特に冬の大雪の日は積雪で自転車が前に進まず、雪の経験のない南国沖縄育ちの私には、つらい時もあった。学内では、沖縄の本土復帰が現実味を帯びてきた時でもあり、県出身の学友達と議論白熱の中、有意義な学生生活を過ごした。学友とは現在でも親交を深めている。昭和48年3月大学を卒業した。前年(47年)、時の首相・田中角榮氏の日本列島改造論による列島改造ブームに刺激を受けた。これからは不動産の時代だと考え、三越系不動産会社に就職が決まった。宅地分譲開発課に配属され、特に、黒田哲平課長には不動産の真髄をとことん教えて頂いた。8年間勤務し、郷里沖縄の宅建業界の発展に尽力したいとの強い思いで東京から沖縄に戻った。大興不動産商事株式会社は昭和57年8月、那覇市国際通り近く「間口三間15坪」の事務所で創業した。当時、他人所有建物の賃貸媒介が主だった。今年で創業32年を迎える。ここまで結婚30年の妻と二人三脚で、宅建業一筋に歩んできた。創業者にとって「経営の原点は夫婦にあり」である。この間、休日などなく仕事に没頭し働き続け、自己所有賃貸建物11棟・総戸数256室まで伸ばした。同時に宅建業を経営しながら昭和62年1月、宅建主任受験指導校「琉球綜合学院」を創立し、学院長に就いた。学院は那覇本校を含め5ヵ所に開校。地元の沖縄銀行・琉球銀行・沖縄海邦銀行からも依頼を受け、各銀行の研修所で講義をした。受講生に自ら全科目の講義を行い、バブル経済崩壊による学院閉鎖までの8年間で「合格者1293名」の実績を残した。合格した皆さんは、沖縄県内の宅建業界でご活躍されている。戦後68年経過した現在でも、国土面積の0・6%に過ぎない沖縄県に、在日米軍基地の74%が集中している。陸域だけでなく、沖縄県周辺には海域と空域においても米軍の訓練域(管理区域)があり、自由に使えない。基地の過重負担が沖縄県の振興開発を阻害しているのが実状だ。基地の返還と返還跡地の有効利用計画は、沖縄経済社会の発展を図る上で重要な課題である。米軍基地の全面返還が早期に実現され、那覇新都心地区の成功をモデルに、悲願の沖縄経済社会の自立的発展が実現されることを熱望する。経

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