東洋大学校友会報261号
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6TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 26113.5級 行間251行17字×1段29行×4段=1P1972字「文学」といふものへの帰結校友内藤 晴行 ないとう はるゆき 昭和46年1月群馬県生まれ平成7年3月文学部中国哲学文学科卒業平成8年4月群馬県公立高等学校教員 採用平成18年4月群馬県立土屋文明記念文学館 勤務 現在群馬県立前橋南高等学校 教諭 東洋大学校友会群馬県支部 幹事友会創立一二〇周年、誠におめでとうございます。校友会群馬県支部に携わっている一人として、心よりお祝い申し上げます。 当時の社会趨勢もさることながら、東洋大学史上最高の人数が受験したと報告されている平成三年度入試。当時は、その人数など知る由もなく、受験に臨んだ。結果、何とか突破。憧れの東洋大学に入学を決め、学びを深めるべく朝霞キャンパスの門をくぐった。中国哲学文学科では、七十八名の学友と同窓となった。ある時、「一時間も授業を休まず、良い結果を残し、何とかして文学部総代で卒業を」という決意を秘かに固めた。中哲では、教師を志す示唆を私に与え、生涯の師となる故新田幸治先生に巡り逢うことができた。また、サークル活動は、中学・高校と取り組んできたバレーボールを続けたく、同好会「白山クラブ」に入会。卒業二十年を経た今でも付き合いの続く、素敵な仲間たちと出会った。顧問は、運命かな偶然にも新田先生で、心おきなくバレーボールにも打ち込めた。 今思えば、文学部に在籍していながら、文学に精通していたかというと、必ずしもそうではない。大学での学びが開花したなと実感したのは、群馬県公立高等学校教員として採用されてから十年後、群馬県立土屋文明記念文学館への勤務を命ぜられた時だ。それまでの十年間は、教職に身を置きながら、忙しさにかまけて、文学というものに身を委ねる機会は、国語の授業に関連するもの以外、皆無であった。その文学館には、本年三月末までの八年間、無事に勤めることができた。その原動力となっていたのが、大学での学びであった。萩原朔太郎・大手拓次・山村暮ぼちょう鳥・土屋文明・田山花袋など群馬文学界ゆかりの彼らを中心に、その他文学者全般の肉筆資料、書簡、書幅、遺品、初版本、文学雑誌など、現物を手にし、目にしてきた。そこから、文人たちの業績、そして息づかいや思いを体感し、それらが自然と自分の体の中に入ってくる感覚を覚えた。ただ、この仕事を通して文学に精通した、とは言い難い。しかし、東洋大学文学部での学びも含めてすべてが、この「文学」に帰結しているのだということを実感することができた。 文学館では、『芥川龍之介の生涯』展、『加藤楸しゅうそん邨と「寒かんらい雷」』展、『(土屋)文明忌・(山村)暮鳥忌』展などの企画展を担当。また、館の根幹となる二十万点に及ぶ文学資料の収蔵・管理・保管の総括を担当し、微力ながら邁進してきた。「貴重な文学資料を何とか次世代に遺していきたい」という一念で。一方、この仕事を通して、東洋出身の正富汪洋、勝承夫、前川佐美雄、坪野哲久、そして坂口安吾など、かつて東洋大学が「歌人大学、詩人大学」と呼ばれていたことを垣間見ることができた。 東洋大学の周辺では、根岸の子規庵、千駄木の森鴎外記念館、田端の文士村記念館、駒場の日本近代文学館など、文学にゆかりのある館が多い。仕事の関係と己のスキルアップのため各所を訪れたが、今考えると、何故、学生時代に行かなかったのだろうかと悔やまれてならない。ただ、全国各地の文学館の学芸員たちとの交流や出逢いは、今でもかけがえのない財産である。そしてその交流は現い ま在も続いている。 東洋大学卒業間際、新田幸治先生からいただいた「内藤君さぁ…。文学部の総代をやってくれないかなぁ?」というお言葉、私の結婚披露宴に東京から出席してくださった時の先生の笑顔、講義中ふとこぼす何気ない愚痴それを独り笑う先生のお姿。それらすべてが、今も私の心の支えとなっている。 今春、群馬県の高校教育界に戻った。過去、その勤務校での優秀な生徒たちが東洋大学に入学し、お世話になってきている。今後とも、東洋大学での学びと恩師の言葉を胸に、群馬県にて後進の学びを後押ししていきたいと考えている。校

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