東洋大学校友会報 No.269
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10TOYO UNIVERSITY ALUMNI ASSOCIATION ● 269校友髙島 悦子 たかしま えつこ昭和6年3月旧満洲大連にて出生22年3月敗戦により引き揚げて帰る平成 9年4月文学部国文学科入学14年3月   〃   卒業27年12月『あれから70年』出版野の山はさくらいろ船坂山や杉坂と御跡慕ひて院の庄微衷を如何で聞きこえんと桜の幹に十字の詩天てん勾こう踐せんを空しうする莫れときに范はん蠡れい無きにしもあらず 中なかの千本あたりのよし水みず院門前に掲げてあったこの詩に、私の眼は釘づけになった。七十余年前、小学校の音楽教室で友と斉唱した児こ島じま高たか徳のりの唱歌ではないか。あの頃は、内容も理解できぬままに諳そらんじて歌っていたのだが。平成二十年四月半ば、奈良在住の友人Sさんのお世話で、永年の思いが叶ってここ日本一の桜の名所野山を訪ねることができた。天皇家が二つに分かれて皇統を争うという、南北朝時代の南朝の行あん宮ぐうがあった所である。後醍醐帝は、建武の中興なるも(建武元年・西暦一三三四年)、二年後足利尊氏の謀む反ほんにより野山に逃げられた。馬の背のような格好に東西の深い谷にはさまれたこの野山には、古くは役えんのぎょうじゃ行者、源義経、静御前、楠正まさ行つら、大だいとうのみやもりなが塔宮護良親王など歴史に残る人々の関わりが多くて、興味は尽きない。この水院の一画に「見わたしのいとよき所、一目千本」の標しるしが立っている。この一目千本という言葉は、子供の頃から頭の隅に記憶されていた。樹木の少ない旧満洲で育っていたからか、女学校一年生の国語の教科書、国木田獨歩作の『武蔵野』の風景への憧れと共にである。下しもの千本では花吹雪が舞い、中なかの千本が散りはじめ、上かみの千本のシロヤマザクラが今まさに満開か。山腹は山桜で膨脹し、花神の声なき声が私の耳朶を刺戟しつづけているような昂揚感を覚えるのだった。小学生の頃の愛唱歌に「青葉茂れる桜井の……」がある。忠臣楠公父子は、戦時中だったので委しく習った。父正まさ成しげ亡きあと成人した楠正行は、後村上帝の許へ、四條畷の決戦に赴くにあたり拝謁し、髻もとどりを切って、 かえらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる の辞世の歌を如意輪寺の扉に鏃やじりで彫った。ときに二十三歳、高こうのもろなお師直との激戦に敗れ、弟正時と刺し違えての壮烈な最期であったという。中の千本あたりはシロヤマザクラの赤味をおびた葉と共に、濃淡の紅色をほどこした花々がすでに萌えでた楓や雑木の若葉、落ち着いた常緑樹の青葉と混在し調和して、野はまさに花浄土の感。ときに谷から吹きあげる風に花びらはいっせいに天上に舞いあがり、ひらひらとゆっくり散っていく。ひとひらひとひらの葩はなびらが小さな胡蝶の舞いを舞う。柴折戸をおして寺庭に入ると、手入れの行き届いた庭樹々の上に、花びらが万遍なく降りそそぎ白砂糖を散りばめた風情。儚はかなごとの異次元に身を浸している思いであった。やや、大気がひんやりとしてきた気配。山の中腹の蔵王権現の大屋根を指し、友はあのそばの旅館を目指すという。 「えっあんな遠くまで歩けるかしら」思わず自信のない言葉を洩らす私。 「大丈夫、降くだる一方だから。お楽しみは、茶店での一服よ」との花より団子に乗せられ、ゆるやかな山道を降くだっていった。

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