TEPPEKI6STAR OF TOYO東洋大学のスターたち東洋大学のスターたち東洋大学のスターたち第1回★★連載企画★★★★★★★私が生まれたのは昭和二十八年八月六日。予定日より一ヶ月ほど早い出産だったという。 父は、当然ながらこの早産を予期していなかった。 わが子の誕生の知らせを聞いたのは、事の子細は分からないが酒と薬を飲んで暴れたらしく、こともあろうに信州の留置場の中でのことだった。 したがって私と父との対面は、私が生まれて六日後のことだった。 産院から戻った母が、玄関で出迎えた父に私を差し出すと、父は私を抱こうともせず、黙ったきり私をみつめていたという。 父が初めて私を抱いたのは、それから三ヵ月以上も経ってからのことだと、物心ついてから母から聞いた。 長い間、その初対面のときの父のためらいが、私の父へのためらいと混じり合っていた。なぜ父は三ヵ月以上も、私を抱こうともしなかったのか。黙って私を見つめながら、父は何を考えていたのだろう。 その謎は、二十七年後に解けた。私が父と同じ状況にたたされたとき、心ならずも、わが子に伸びるべき手が伸びなかった。 出産直後に対面したわが子は、サルの子とも人の子とも区別できない不気味な代物で、これが自分の分身だなどと父親が、すぐに確信をもてるものだとは、おなかを痛めてもいない私にはおよそ不可能なことのように思われた。 私が生まれた当時の父はといえば、アドルムとヒロポンと酒をチャンポンに使い、時おり大いに暴れて世間を騒がせていた。桐生で暴れたことが、翌日の全国紙に載っていたりするのだから、当時の新聞はよほど暇だったか、安吾が暴れることがそれほどのニュース・バリューがあったのか、はたまた近所によほどのおしゃべりがいて誇大に宣伝したのか、今となっては子細はわからない。とにかくゴジラなみに、「安吾、暴れる」の見出しが紙面に躍ったのである。 私の出生届は、私が生まれて十四日目、役所への届け出のリミットぎりぎりに、まず二人の婚姻届が出され、それから数時間後に提出されたらしい。婚姻届と出生届を時間差で出すというところが心憎い演出というべきか、むしろ間違えて逆の順序で出安吾と私と坂口綱男
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