東洋大学校友会報『哲碧』 vol.278
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TEPPEKI7STAR OF TOYO東洋大学のスターたち東洋大学のスターたち東洋大学のスターたち第1回★★連載企画★★★★★★★したほうが父らしかったのにと思うのは、親の心子知らずというものだろうか。実際に届けにやられた人が言うには、母から「くれぐれも順序を間違えないでね」と注意されていたそうだから、子供を放任しようといっていた両親も、そのあたり、思いの外気にかけていたのかもしれない。 もっと早くその前例を知っていれば、いっそ出生届を出した日に婚姻届を出して、これを坂口家の新しい作法として子々孫々に伝えていけたのに、と残念に思ぬでもない。 名前をつけるにあたっても紆余曲折があり、ついに「綱男」という名におさまったが、安吾が初めに考えていたのは、なんと「熊襲(くまそ)」次の候補が「海太郎」だったという。ちなみに壇一雄さんが考えてくださったのは、「千久馬」。熊襲でも海太郎でも千久馬でも、どれでも悪くなかった、と今の私は思う。もし「熊襲」の名で育ったとしたら、私の人生も大幅に様変わりしていたかもしれない……などとつい空想してしまうのは、線の細い人生を歩んできた自分を省みてのことだ。もっとも名前一つで自分の人生がひっくり返るなどとは間違っても思いたくないというのも事実なのだが。 いろいろ考えて、「クマちゃんウミちゃんではこの子がかわいそうだ」という母の一言で、結局、ツナちゃんに決まったという。父は命名の由来として、こんなふうに書き残している。「チャック世に現れアトムまた世に現るとも綱の用の絶ゆることなかるべし汝一本の綱 たらば足らむ」「綱たるはまた巨力を要す。 父」 今読めば実に立派な命名の言葉であるが、子供の頃、これを読んだ私は、親が「綱」なんて名をつけるから、自分は細くてヒョロヒョロになっちゃったんじゃなかろうか、などと思ったものだ。もし「熊襲」と名づけていたら、安吾はどんな由来書を書き残したのだろう。「ふるさとは語ることなし」 「ふるさとは語ることなし」、とは新潟市の寄居浜にある父の石碑に刻まれた碑文の言葉である。父は思春期に新潟の実家に背を向け文学の道に進んだ事もあり、この碑文をふるさとに対しての否定であると言う向きもあるが、その言葉を残したのが安吾だからと言ってそうヒネクレる必要もないと思う。 もっともどちらとも取れる表現で、このような言葉を新潟に残したのは父らしいと言えば父らしい。……… この碑が建てられたのは、私が五歳位の出来事だった。何があるのかも知らぬまま、大勢の人がいる賑々しい場所に引き出され、このひもを引けと言われひもを引くと、真っ白い光沢のある布がスルスルと滑り落ち目の前に巨大な石が姿をあらわした。 五歳の子供にはこの行事はかなり衝撃的な出来事だったらしく、巨大な石の姿はいまだに脳裏に焼き付いている。 以来、新潟に訪れるたびこの碑に詣でる

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