東洋大学校友会報『哲碧』 No.279
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曙会と栗山津禰とのこと      女性校友の組織化への動向温 故 知 新温 故 知 新 大正5年5月19日付の婦人新聞に︑﹁東洋大学に女学生﹂との見出しで以下の記事が掲載されていた︒ ﹁小石川区原町の東洋大学に先月からうら若き一名の婦人が通学しています︒婦人はどんな日でも欠席した事は無い︑授業時間15分前になると必ず門前に姿を現はし︑大勢の中学生がわいわい騒ぎ狂っている運動場の中央を横ぎって大学構内にはいります︒その従容たる態度︑学生達は冷かす処か何れも尊敬の眼を以てその姿を見送るのであります︒この婦人こそ山形県南村山郡上山町栗山判兵衛氏令嬢つね子︵25︶さんで︑山形高等女学校を卒へて小学校臨時教員養成所に入り︑卒業後出京して二松学舎に学ぶ事2年︑先月はじめより東洋大学に学ぶ事になったのであります﹂︵文中︑漢字は現代漢字に修正︶ 東洋大学は︑大正5年4月︑当時の専門学校令による大学の中で他校に先駆けて女子学生を受け入れ︑最初に入学したのが︑この栗山津禰︵つね︶女史だった︒ 国文科に籍を置き男子学生と同じ内容の学科課程を履修したが︑当時男子に与えられていた教員検定試験︵文検︶の無試験の特典が女子には認められず︑津禰女史は改めてこの試験を受けることになる︒これに合格すれば秀才の折り紙がつけられ︑予備試験に合格しただけでも全国の中学校から招聘されたという時代である︒ 津禰はもちろん︑前記の新聞にも紹介されているとおり︑まじめな性格と勤勉さからこの試験に合格し︑卒業後は東京市内の有名校である︿府立第五中学校﹀に赴任した︒男子中学校の教壇に女性教員が立つなどというのは︑日本の教育史上初めてのことであり︑受け入れ側の大英断であったが︑津禰の人物によるところが大きいといわれている︒  津禰女史は︑卒業後︑大正9年に︿曙会﹀を組織し︑教員検定試験を受ける女性のために︿国漢講座﹀開いた︒これが東洋大学女性校友の組織化第一号となる︒昭和6年ごろには十数名の女性が参加しており︑遠方からの女性たちは津禰の家に下宿していたという︒ この講座は︑宇野哲人︑藤村作など︑一流の東洋大学教授陣を講師に︑毎日開講された︒のちに週2回の藤村教授の俳句と源氏物語の講義となり︑男性の聴講生も受け入れるようになって︑100人を超えるほどの盛大な会になっていったという︒ 津禰女史は︑生涯をこの会に捧げたと言っても過言ではないが︑それは父上の﹁一人の研究は限られているから︑そういう研究者を育てる研究をしろ﹂という言葉を実行したのだという︒厳しすぎて人と妥協できず︑喧嘩別れになることも多かったようだが︑﹁世に役立つことができないから死ぬ﹂と言って断食したというエピソードも伝わっている︒ 平成4年になって︑校友会本部主導のもとに︑︿校友会組織活性化3か年計画﹀の一つとして︑︿東洋大学レデイスクラブ﹀が設立され︑その活動は10年余り続いた︒ 解散後︑改めて女性の組織化を重視する方針のもとに︑平成23年に︿女性連絡協議会︵のちに女性連絡会と改名︶﹀を発足させ︑現在に至っている︒ 現在の世の中︑生活の大抵の場では女性だからといって差別されることはない︒大正︑昭和初期の女性たちに比べれば大きな自由を享受している︒それが建前だけのことではなくなったとき︑私は︑ようやく津禰女史の努力が報われたと実感するに違いない︒     ︵昭和41年社会学部卒 沖山英子︶

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