英語嫌いがインドで就職!?インド哲学科卒業生の激動インド奮闘記
インド哲学の導きか、不思議な縁に導かれた私の激動インド奮闘記
東洋大学校友会の皆様、こんにちは。2002年に文学部インド哲学科を卒業しました杵淵美佐子(旧姓:助川)です。
現在、私はこれまでの経験を活かして、さまざまなお仕事をしてきました。私のこれまでの歩みは決して平坦なものではなく、特に「インド」という国との出会いによって、想像もしていなかったほど濃密でエキサイティングなものとなりました。
今回は、私の少し不真面目だった(?)学生時代の猛省から始まり、文化の荒波に揉まれた9年間のインド生活、そして大学での学びが人生の伏線として回収されていく不思議な旅路についてご紹介したいと思います。
片道2時間の通学と、朝霞キャンパスへの「リベンジ通学」
私の大学時代、最初の試練は「通学」でした。自宅からキャンパスまで片道約2時間。サークル活動に参加する余裕などは到底なく、夕方からは翌日のアルバイトのために一目散に帰宅する毎日。今振り返ると、お世辞にも学習意欲の高い学生とは言えませんでした。
そんな私が「インド哲学科」を選んだ理由は、仏教美術への関心や、インドという壮大な国への素朴な興味、そして何より「とても珍しい学科でおもしろそうだ」という直感からでした。
しかし、大学生活には思わぬ落とし穴がありました。当時、私は第2外国語のドイツ語にすっかりハマってしまい、一方で英語の講義をおろそかにしてしまったのです。「これが後の転職や人生にどれほど大きな影響を与えるか」など、当時の私は知る由もありません。
結果として英語の必須単位を落としてしまい、3年生になって待望の白山キャンパスに通えるようになったにもかかわらず、落とした英語の単位を履修するために、週に何度も朝早くから朝霞キャンパスへと向かう羽目になりました。あの朝霞の爽やかな朝の空気と、自業自得の切なさは今でも忘れられません。
しかし、人生とは不思議なものです。地元の図書館で出会った一人のインド人と、遠距離恋愛、復縁と別れを幾度も繰り返すマサラの効いた辛い恋愛を経て、私たちは結婚することになったのです。
英語嫌いの私が、いきなりインドの大家族と同居へ
結婚後、しばらくは日本で暮らしていましたが、数年が経った頃、主人からある提案がありました。
「日本の教育システムだけに頼るのも少し不安がある。自分も日本生活が長くなったし、子どもたちを一度インドへ連れて帰り、違う文化の中で育ててみるのはどうだろう」
私自身、それまでに何度かインドを訪れていたこともあり、「子どもの教育のために海外で経験を積むのは素晴らしいことかもしれない」とそのまま渡印を決意しました。
ところが、移住早々に洗礼を受けることになります。主人が日本でのアパートの引き払い対応などのため、約1週間遅れて合流することになったのです。私と2人の子どもたちだけで、一足先にインドへ着陸。そして待っていたのは、主人の「大家族」といきなりの同居生活でした。
主人の故郷はインドの中でも識字率が非常に高い州で、基本的には英語が通じる地域でした。しかし、実際の生活の90%は現地のローカル言語。大学時代に英語の単位を落とし、英語に強いコンプレックスを持っていた私にとって、英語すらおぼつかないのにローカル言語など1ミリもわかるはずもありません。
主人が来るまでの1週間、お決まりの歓迎行事として、毎日3軒ほど親戚回りが組み込まれ、夜になればまた別の親戚が家を訪ねてきます。飛び交う言葉が全く理解できない私は、自分の英語の下手さをごまかすかのように、ただただ満面の笑顔で「うん、うん」と頷き続けることしかできませんでした。
あの最初の1週間は、私の人生の中で最も顔の筋肉を使った時間だったと思います。

混沌のインド教育現場:2人がけに4人、そして「公文式」の奇跡
主人が合流した翌日、いよいよ娘の現地校への初登校が始まりました。そこで目にしたのは、インドの圧倒的な「人口の壁」とエネルギーです。
学校は1学年10クラス、1クラス50人という大所帯。教室を覗くと、どう見ても2人がけの机に4人の子どもがぎゅうぎゅうに座っています。さらに、スクールバスがないため、子ども1人の送り迎えに対して、親や祖父母、親戚など大人4人ほどがゾロゾロと付いてきます。学校周辺は送迎の車と人で大渋滞。まさに混沌(カオス)の一言でした。
我が家はお抱えの運転手さんに学校の近くまで送ってもらっていましたが、交通規制のため途中からは炎天下の中、汗だくになりながら子供の手を引いて教室まで送り迎えをしなければなりませんでした。
インドの学校ならではの面白い習慣もありました。大渋滞を避けるために学年によって登校時間がバラバラなのですが、学校に到着して1時間目が終わると、突然長い休み時間が始まります。実はこれ、「朝ごはんの時間」なのです。
遠方の子は朝6時頃のバスに乗るため、朝食を学校で食べるのが基本。そのため、インドの子どもたちは「朝ごはん用」と「お昼ごはん用」の2つのお弁当箱を持って登校します。
幸い、我が家は学校から車で20分ほどの距離だったため、朝ごはん用のお弁当は免れましたが、帰りは13時半に終わるため、再びお迎えの戦いが始まります。ある日、突然ストライキや抗議活動が発生し、大通りが封鎖されたときは、普段20分の距離を2時間かけて帰宅したこともありました。
国際結婚とはいえ、日本にいる時はずっと日本語で会話をしていたため、娘も私も英語はゼロからのスタート。当初、娘は先生から成績のことで色々と指摘を受ける日々が続き多少の辛さはあったと思います(インドでは、生徒の成績が学校の評判に直結するため、成績が悪いと容赦なく退学させられる厳しい現実があります)。
しかし、娘には強い味方がありました。日本にいる時からコツコツと続けていた「公文式」です。英語はわからなくても、算数の計算だけはクラスの誰よりも圧倒的に早かったのです。
これが娘にとって大きな自信となり、「やればできる」という学習習慣に火がつきました。結果として、高校を卒業する頃には学年でトップ5に入るほどの成績を収め、卒業式では校長先生から特別賞をいただけるほどの頑張り屋さんへと成長してくれました。
子どもの適応力と努力には、親ながら本当に頭が下がる思いでした。

まさかの現地就職:綿まみれのクリスマスとクリケットでの職務放棄
娘の学校生活が落ち着いた頃、私もインドに来て半年のタイミングで、主人の勤めるグローバル企業の面接を受けることになりました。娘の英語力は爆発的に伸びていましたが、私はまだまだ「めまい」を覚えるレベル。見かねた現地のインド人スタッフが面接のカンペ(想定問答)を作ってくれ、なんとか入社することができました。
しかし、入社してからの日々はさらに怒涛でした。英語の資料を見るだけで頭が痛くなる私を、気さくなインド人の同僚たちは「OK, OK!」と軽いノリで、通訳が必要な定例会議にいきなり連れて行きます。そして投げられたオーダーは、「車載組み込み半導体のコーディング(プログラミング)の通訳をして」という無理難題。必死に食らいつくしかありませんでした。
一方で、インドのオフィスライフは最高にエキサイティングで人間味に溢れていました。お祭りのシーズンになると、会社の駐車場が丸ごとお祭り会場に変貌し、車が一切止められなくなります。代わりに巨大なステージと長テーブルが設置され、100人以上の社員で特別料理を食べながら、ステージ上で歌い踊る同僚たちを応援するのです。
途中、「おっと、ちょっと会議があるから中抜けするわ」と言って会議室に向かい、終わったらまたステージに戻って踊る同僚の姿もあり、日本の「仕事第一」の価値観を爽快に壊してくれました。
クリスマスにはフロア対抗のデコレーションコンクールがあり、なぜか私が審査員に任命されました。真面目に会議をしている最中にもかかわらず、「デスクに雪のデコレーションをするから!」と同僚たちが私の机に大量の綿をかぶせてきます。踊るサンタクロース(に変装した同僚)と一緒にフロアを審査して回ったのは、本当に楽しい思い出です。
他にも、クリケットの国際試合があればオフィスからは誰もいなくなり、金曜日の夕方に会社からお菓子が振る舞われれば、やっぱりフロアはガラガラになります。時にはオフィスでカラオケ大会が始まり、お茶を飲みながら同僚の歌を聴くことも。その時に聴いたタミル語の歌の美しさは、今でも耳に残っています。
映画大国インドならではの質問もありました。同僚からは必ず「どの俳優が好きか?」と聞かれます。当時の私は映画スターに詳しくなかったので、直感で「ニビン・ポーリ(Nivin Pauly)」が好きだと答えました。
それから9年間、その質問にはすべて「ニビン・ポーリ」と答え続けました。ただ、私のインド生活の後半、彼は少し恰幅の良いおじさん体型になってしまい、同僚たちから「なんで今でもニビン・ポーリなの!?」とよく突っ込まれたのも良い思い出です。
映画館にもよく足を運びました。インドでは映画上映の前に必ず全員起立して国家斉唱を行います。おかげで私もインド国歌を完璧に覚えることができました。
下の娘の保育園の行事でも、インドの子どもたちが愛国心あふれるスピーチをする姿を毎回目にして、その誇らしげな姿をいつも「かっこいいな」とリスペクトの念を持って見つめていました。
点と線が繋がるとき:生活の中で息づくインド哲学
インド生活も3年が過ぎ、現地のカオスな生活にもすっかり馴染んだ頃、転機が訪れます。会社の同僚から「ねえ、日本人探してるおじさんがいるんだけど、履歴書ちょうだい。面接受けてみてよ」と声をかけられ、あれよあれよという間に流れるように転職が決まってしまったのです。
さらに、同じタイミングで私の妊娠も判明。ここから私のインド生活後半戦は、より濃く、より深いものへと変わっていきました。この時、私はふと気づいたのです。大学時代、特に深い理由もなく選んだ「インド哲学科」という専攻。あの時はただの学問、あるいは遠い世界の出来事のように思っていたことが、今の私の生活のすぐそばに、当たり前のように息づいていることに。
毎朝、義母が家族の健康を祈って唱えるマントラ(お経)の響き。
街の至る所に祀られ、人々の喜怒哀楽に寄り添うヒンドゥー教の神々。
教科書の中でしか知らなかった「カースト(ヴァルナ・ジャーティ)」という構造が、実際の社会の中でどのような意味を持ち、人々のつながりや生活にどう影響しているのか。
日本にいた時には文字面でしか理解できなかったことが、日々の暮らしのトラブルや、出産、そして仕事という生きた体験を通して、自分の肌感覚として染み込んできました。この経験こそが、私の人生における最大の財産です。
大学での専攻、図書館での主人との出会い、英語の挫折、そしてインドでの暮らし。一見、バラバラに見えた人生のピースが、すべて「インド」という一本の強い線で繋がっていたのだと、不思議な縁を感じずにはいられません。

いつ、どこで人生の強力な伏線として回収されるのかわからない人生だからこそ
もし、今何か新しいことに挑戦しようとしていたり、予期せぬ環境の変化に戸惑ったりしている方がいれば、ぜひその混沌を楽しんでみてください。大学時代の学びや、一見「失敗した」と思うような回り道も、いつ、どこで人生の強力な伏線として回収されるかわかりません。
インドの人々が教えてくれた「細かいことは気にしない、なんとかなる(Sab Kuch Milega / OK, OK!)」の精神は、変化の激しい今の時代を生き抜くための最強のライフハックだと信じています。東洋大学で学んだ多様性への視点を胸に、これからも国内外の人々を繋ぐ架け橋として精進してまいります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回はインド後半の生活についてご紹介したいと思います。朝霞と白山の空を懐かしみつつ。
2002年文学部インド哲学科卒
杵淵 美佐子(旧姓:助川)