全国の支部ブログ

茨城県支部定期総会での学び <学生さんの講演を聞く>

ぼくは、神奈川県横浜市から電車🚃に乗って、東京都〜千葉県を経由し、茨城県牛久駅で下車、牛久シティホテルで開催された「茨城県支部定期総会」に参加しました。

総会の特別企画は、現役4年生・近藤結希さん(日文4年)による講演でした。彼女が活動していた「スポーツ東洋」は、購読料(1500円/年)と大学からの助成金で運営され、年5回刊行しています。東洋大学HPからも閲覧可能です。

彼女は取材~執筆~校正~編集まで3年間(4年生になると記者を引退、後輩指導の役割)、大学新聞の記者として全力でとりくんできたそうです。

 

~ここからは、彼女自身が語った言葉を、ぼくがメモをとり、それをまとめたものです~

 


 

私は新潟県佐渡島で生まれ育ち、高3の進路決定にあたっては、当初は地元の国公立大学への進学を想定していました。しかし、高校での部活で陸上(長距離)にとりくみ、練習がきつかったり、結果が出なかったりするなかで、「部活の意義」に悩んでいたとき、私を支えてくれたのがスポーツ新聞でした。

私が「苦労や挫折を乗り越えることができ、自分もいつかスポーツの素晴らしさや楽しさをお届けするような活動をしてみたい」と考えるようになっていたときに、大学新聞の存在を知ることになりました。

自分の人生を変えてくれるような気がして、大学新聞のある関東の私立大学へ進路変更し、スポーツの強い大学でもある東洋大学へ入学しました。

入学後すぐに「スポーツ東洋」へ入り、東洋大学13部会の体育会を15~20人の体制で記事を書き、写真を撮るという充実した日々、熱中した3年間を過ごさせていただきました。

世界で闘うようなトップ選手さんたちにも触れることができましたが、皆さん暖かく優しいアスリートばかりで、その努力量や人間性に多くのことを学ばせていただきました。

私たち「スポーツ東洋」はサークル扱いなので、公欠がなく出席日数とにらめっこしながら取材に出かけていました。しかし、オリンピック選手であった柳田選手は公欠扱いであっても、世界選手権のときに代替措置として提出用のレポートを書いていました。それを知り、私は頭の下がる想いがしました。

私が一番感激したのは前々回の箱根駅伝です。自宅から始発で大手町に向かい、場所取りをしてから、寒いなかで8時間待ちました。雪国育ちで寒さには強いと思っていましたが、それでも「地蔵様」のような気持ちで寒かったです。

私は、陸上部取材班のチーフとして関わりましたが、歴史に残る熾烈なシード権獲得のめのアンカー同士の闘いでした。東洋大学は、エース格3人がケガのために応援に回り、石田・米崎両選手がアンカー薄根大河(2年)選手をゴールで迎えたときの姿に、私は号泣しながらシャッターを切り続けました。

復路鶴見中継所のタスキリレーは8位が東洋大、9位が帝京大、10位が順大で、この3校の差はわずか11秒でした。さらにシード圏内まで11位の東京国際大が21秒差、12位の日体大が26秒差につけていたのです。

アンカーの薄根大河選手の手袋には「先輩のために」と書かれていました。やり直しの効かない駅伝というスポーツ。だからこそ美しい。それを自分が、現場から伝えるというプレッシャーとやりがいの体験が、一番強く印象に残っています。
たとえ報われなくても努力し続ける、後輩たちは先輩のためにという気持ちで力を出し尽くしたシーンには、今でも思い出すと感動がよみがえってきます。

駅伝の選手たちも私たち大学新聞の記者も、決してプロではありません。箱根駅伝で全力で頑張る選手たちと、それを「どのような記事にするのか?」という私たちの「届けたい」という気持ちが重なる瞬間を実感できました。

すべてがうまくいったわけではなく、記事を書いてもなかなか思うように伝わらない時もありましたし、締め切りに追われ逃げたくなったり、部員たちと対立したり、カメラを向けるときの孤独といったものも痛切に感じた時もありました。

決してメディアでは扱われない人たちのやりがいや、「結果がすべての世界で全力を傾ける選手たちの輝き」を少しでも届けたいと思って活動してきました。

そうした中で、私も来春からは社会人としてスタートしますが、東洋大学での貴重な体験(宝物)を胸に頑張っていこうと思っています。
また、私がもう一度18歳に戻ったとしても「東洋大学に入りたい」と思っています。

以上、若い私の拙い体験ではありますが、言葉足らずのところもありましたけれども、最後まで耳を傾けていただきありがとうございました。

 

講演する近藤結希さん

 


 

〈宮崎 S52 中哲〉

 

 

 

 

 

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