母校支援

白山での奇跡が繋いだ、絵本作家への道のり

あたふた白山界隈ぐるぐる潜伏記

ぼくは文学部教育学科に入学した。最初の2年間は夜間二部。3年の時に昼間部に転部した。漠然とだけど、ぼくは学校の先生になりたかった。少なくとも「教育」という分野で仕事ができたらいいなと思っていた。

暗記ではなく「自分で学ぶ」― 若狭蔵之助先生との出会い

大学での勉強というのは、高校までの勉強のようにはいかない。入学していきなり履修届なるものを自分で提出しなくてはならない。あたふたとスケジュールを自分で決める。そのことだけで、これからは自己責任で生きていく入り口に立っているような気がした。

そんな履修候補の中に、特別講義で練馬区の教員が学外講師として来るのを見つけた。

2年生の時だったか、タイトルに惹かれて履修した。教員資格取得のための単位にはならない授業だが、絶対にその教室に行く価値があると思った。思った通り。独創性に優れた教育現場のやり方が、もの凄く素敵で刺激に満ちていた。それが若狭蔵之助(わかさ くらのすけ)先生だった。

「こどもを伸ばす自由教室」という、講談社現代新書の書籍名そのままを授業しに来ていたのだ。それは「フレネ教育」をベースにして、日本の公教育の場にどうにか取り入れようとした「若狭式教育」だった。

当時はまだまだ「暗記」が「教育」の時代だった。だから「教育」はただの「暗記や右へならえの勉強」などではない。子ども自身の好奇心をベースに「伸ばしてあげる教育」「自分で学ぶ」というやり方があっていいんだということを、講義は数回だったけれど私の身体に染み込ませたような気がする。

そのほかにも教育心理学や、教育社会学、社会教育学など切り口が面白くて、そういう見方や検証の仕方があるのかとワクワクしながらさまざまな授業を体感していった。こうした一つ一つの経験が、だんだんと自分の中に積み重なっていく。それが私の大学時代だった。

というわけで、高校までの世界よりも、かなり広い世界を大学では見聞することになった。しかもその見聞の舵取りは自分なのだ。行きたい方へ行ける。その視野の広げ方も、少しずつだけれど、ものすごくその後の作家活動全般に好奇心の醸成という形で、じわじわと活きている気がする。

たぬきは4年間を駆け抜ける。個性の塊のような仲間と子どもたちと

そもそも大学というのは、かなり強いこだわりと個性を持った教授や同級生など、さまざまなバックボーンを抱えた人が全国から集まってきている場だ。若狭先生のみならず、そんな「人」たちから影響を受けないわけがない。大学の同級生たちは、本当にちょっと変わった「人」たちだった。いや、だいぶ変な連中だった。

なかでも、IVYルックのニコチャン大魔王「きんちゃん」と、エルビス・コステロがスネ夫になったような「ムラ」とぼくの3人は、よくつるんでいた。

当時の学食には「クリーム定食」という、シチューかけライスのような美味いものもあったが、近所の定食屋で絶品かつリーズナブルな「とり天定食」を見つけてくるのが「きんちゃん」だった。そういえば、マクドナルドのチキンナゲットの試作をいち早く美味しそうに食べていたのも「きんちゃん」だった。食べるということにこだわるのを初めてみた。

「きんちゃん」は、学生たちに声をかけて、夏には子どものキャンプのリーダーを、冬には子どものスキースクールのリーダーを集めるといったこともよくしていた。今思えば、校外の社会教育的野外活動だった。彼はそういうディレクションが得意な人だった。当然、ぼくもそこに参加することになる。

在学中の4年間、ぼくは夏休みや冬休みになると子どもたちと野山で遊び回り、その子どもたちに見せる壁新聞を毎晩描いたり、寝起きをともにしたりするなかで「子ども」という存在の面白くも不可思議なところに気づいていく。ぼくを「たぬき」と命名したのも、そこで出会った子どもだった。だから仲間内では、今でもぼくを「たぬき」と呼ぶ。

ここでの様々な子どもとの出会いが、後に子どもの本を作る上での土台のようなものを、確実に無意識に築いていった。そして、この野外活動の人脈は、のちに絵本や保育の世界にぼくを導いていく。ぼくに「絵本描いてみれば」といった中川ひろたかをはじめ、新沢としひこ、ケロポンズ、谷口國博、佐藤弘道、杉山亮など(敬称略)遊び歌や絵本の作家たち。みなさんとの縁が繋がり、こどもの歌や遊び歌、絵本などをたくさん共作していくことになる。

 左)ねこときどきライオン(2013年)猫が急に変身したら?
右)ばけばけはっぱ(2014年)はっぱが動物にばける

通学路の福音館書店で出逢った、刺激的な新刊絵本たち

ラッキーなことに当時の夜間部は全て白山キャンパスで、1・2年生といえども朝霞へ通学することはなかった。4年間の活動範囲は、白山から巣鴨、そして池袋になった。ぼくは白山と巣鴨のバス代がもったいないから、その区間を当然歩く。

歩くとモスバーガーもあるし、美味しい定食屋もあるし、喫茶店もある。そして、そこには「福音館書店」という児童書出版社があった(現在は中野に移転している)。

思い起こせば、福音館の前を通るたび、社屋の壁にディスプレイされていた新刊の月刊絵本を眺めていた。へえ、そんな絵本があるのか。わあ、こんな作家が絵本を描くのかと。今思えば、この当時のラインナップは、ガロ系の漫画家や現代美術の作家など、アバンギャルドなものが多かった気がする。もちろん、その合間に素敵な王道の子ども絵本もあった。まさに縦横無尽に刺激的だった。

そこで見た新刊のいくつかをみては、巣鴨や池袋の書店でジャケ買いしていた。普通の大学生にも優しいペーパーバック価格で買えたからだ。たぶん300円くらい。当時も単行本の絵本は高額で、ハードカバーで1000円以上。おいそれとは買えなかった。リーズナブルな福音館の月刊絵本。今思えば、それが絵本との本当の出会いだった。しかも手に取れる新刊絵本。まさに「絵本の今」を手にすることができていたのが幸運でもあった。

左)バナーナ!(2016年)バナナで楽しい言葉遊び
右)このドアあけたら(2015年)仕掛け絵本。ドアを開けたら?

 一流絵本作家たちの衝撃に生まれた思い。こんな絵本を描いてみたい

絵本との出会いをもう一つ。学内の掲示板では短期アルバイトを紹介してくれる。夜間部時代に、そこで見つけた小石川図書館へ2週間通った。

児童室の担当になり、棚卸しをした。絵本一冊一冊のカードを新しくする、汚れや破損がないかをチェックする仕事だった。昼休みや作業の暇を見つけては、棚卸しながら「あ」から気になる絵本を片っ端から読んだ。ここで真っ直ぐ、しかもたくさんの絵本に出会う。たまたまのアルバイトで、実は決定的な出会いをすることになった。

五味太郎・長新太・和田誠・林明子・佐野洋子・センダックなど。当時の一流の作品を読み漁った。中でも五味さんの絵本のセンスの良さとその独特の視点に驚き、長さんの酒脱で子どものようなのびのびした画風とナンセンスに染まった。こんな絵本を描いてみたい。そう思わせた。そしてそれが長く心の中に残った。

左)なんでだろう(2004年)こどもの「なんで?」に寄り添う
右)おばけがふわふわ(2017年)かわいいお化けの絵本

憧れのマドンナ神田道子先生。「泰然自若」というものを学ぶ

さてさてところで、個性豊かな大学の教授たちのことも忘れちゃいけない。中でも、ぼくが初めて「フェミニスト」という言葉を耳にしたのが神田道子先生だ。キッパリバッサリと論を進めていく先生は眩しくも、かっこよかった。ツイードのジャケットを着こなし、きりりとした佇まいは、まさに憧れのマドンナ教授といった風情だった。

後日、その神田先生が蓮舫議員と事業仕分け会議で論戦を繰り広げることになるとは、当時は思いもよらないことだった。卒業後ずいぶん経ってからのことだ。神田先生はその時、国立女性教育会館の理事長を務められていた。たまたまテレビ放送で観ていたのだが、ただただ仕分けて廃止に持っていきたい議員を逆に論破していて爽快だった。

「いやいや蓮舫さん、神田先生には論戦では勝てないって」
そう思って、冷静で凛とした先生が映るテレビ画面を観ていた。

案の定、仕分けようとしていた神田先生の国立女性教育会館は仕分け仕切れなかったと記憶している。そんな先生から、ぼくは教育社会学の知識以上に「泰然自若」という生き方を学んだのだ。

左)たなばたバス(2012年)七夕の夜にバスは空を飛ぶ
右)どたばたへなちょこ探偵団(2018年)へなちょこ探偵が事件を追う

岡田先生との立ち話から、まさかの教育委員会へ

そしてもう一人、恩師である岡田忠男先生を紹介したい。先生は卒業謝恩会の立食パーティで、たまたま立ち話をしていたときにぼくの人生を導いてくれた。

何気ない社交辞令の後、ぼくの卒業後の進路の話になった時だ。

「ぼくは教員試験浪人です」と言うと
「そうか。でも働きながらでも試験は受けられるね」と岡田先生はおっしゃり。
「藤本くんはどこに住んでるの?」
「中野区です」というと、
「知り合いがいるから尋ねるといいよ」と、中野区教育委員会を紹介された。

そして3月下旬には、考える間もなく、ぼくは中野区役所でその知り合いという方と会って話をしていた。ロマンスグレーの恰幅のいい、柔和な中にも芯の通った瞳の人と話しているうちに「じゃあ、来週から来なさい」ということになり、4月の手前から、N区教育委員会の社会教育指導員という非常勤職員として勤務することになった。これはただの紹介や訪問ではなく、実質的な就職面接だったのだ。あれよあれよという間に、N区の職員になったのだった。

ちなみに、岡田先生の知り合いというのは、面接をしてくれた中野区教育委員会の社会教育主事であった矢萩操先生だった。矢萩先生は、学校外のあらゆる場面での「学習」「成長」「連携」という仕掛けを構想し実現してきた「社会教育のパイオニア」だった。請われればどこまでも社会教育に関する講演会に行くし、テレビ局に呼ばれて解説をしに行くこともあった。そんな社会教育界のいい意味での怪物だった。

ぼくが中野区の社会教育事業で垣間見たのは、ただたくさんの教室や事業を提供するだけの姿ではない。そこでの学びを自分の生活に活かし、それを地域やコミュニティに活かし、社会全体で前のめりに楽しく有意義に暮らせる。そんな理想を目指していたような気がする。

「生涯学習」なんて言葉で矮小化してしまった現在から見れば、当時の中野区の社会教育環境がいかに充実していたことか、だからぼくは知っている。もしかしたら日本の社会教育の基礎の具現化の仕掛け人は矢萩先生だったのだ。

ぼくはこの人との出会いから、作家としても、何らかの形でどこかの誰かに微力でも貢献できる人間になりたいという強い気持ちを育んだと思っている。そして、それがぼくにとっては「絵本」だった。親子に喜んでもらい、子どもたちには笑顔になってもらいたい。そんな絵本を描きたいと、今日までずっと活動を続けている。

白山から始まった人生の不思議。遠回りして辿り着いた「絵本作家」の道

大学での学び、出会い、「きんちゃん」が誘ってくれた子どもたちとの世界、偶然の小石川図書館、そして岡田先生が繋げてくれたこと。それらがすべて、数珠つなぎに繋がって、今のぼくがある。すべてに感謝である。

あたふたしたり、失敗したり、悩んだり、ぐるぐるループにハマったりするなかで熟成されたぼくは、大学卒業後に中野区区教育委員会で社会教育主事となるものの、やっぱり絵本が描きたくて、教育委員会勤務時に講談社絵本新人賞を受賞。2000年に退職。その後世田谷区の保育園の講師として、未就学の乳幼児たちと出会う。

大学在学中に芽生えた絵本作家という道にやがて辿り着く。大学時代を白山で過ごしたその奇跡的なことに感謝したい。あの日から始まったに違いないから。

後日談。2026年度から、都内の大学に誘われて絵本制作のクラスを受け持つことになった。冒頭に書いた「学校の先生」になりたかったあの頃から、あたふたしてぐるぐる回って、気がついたらなんだかそこにいた。人生は、本当に不思議なものである。

1985年
文学部教育学科卒
絵本作家  藤本ともひこ
https://tanukiss.com/

注 釈

注1  若狭蔵之助先生と教育(わかさ くらのすけ、1929年 – 2010年):日本の教育者。小学校教諭を務めた後、フランスの教育者フレネの思想に共鳴。1970年代から公教育の現場で「フレネ教育研究会」を主宰し、印刷機を用いた自由作文や新聞づくりを実践・普及させ、子どもの主体的学びを拓いた。講義タイトルの書籍は『子どもを伸ばす自由教室 新しい教育をめざして』講談社現代新書1983年出版。(※一般の表記に合わせ、本文の表記も「若狭蔵之助」に統一しています)

注2  ガロ系の漫画家:1960年代から1990年代にかけて青林堂が発行していた漫画雑誌『月刊漫画ガロ』に代表される、商業性よりも作家のオリジナリティや芸術性、前衛性を重視した独自の作風を持つ漫画家の総称。

注3  神田道子(かんだ みちこ)元学長:東洋大学名誉教授・第38代学長。女性教育や生涯学習、社会教育学の第一人者。ジェンダー平等や地域・市民の学びの環境整備に尽力した。同大学初の女性学長、国立女性教育会館(NWEC)館長など公職も歴任。2009年11月民主党政権下で行われた事業仕分けで、NWEC理事長であった神田道子先生が「人間を大切にする事業について、一方的にただ質問に答えろというのは心外だ」と毅然と反論・抗議を行い、当時大きく報道された。

注4  岡田忠男(おかだ ただお)先生:1950年頃から東京都教育委員会で活動、戦後・高度成長期の首都圏教育行政の基盤整備に尽力。学校教育、生涯学習や地域社会教育の振興、教員の資質向上に深く関わった人物として知られる。著作活動も行っていた。

注5  矢萩操(やはぎ みさお)先生:中野区教育委員会の社会教育主事等として、住民主体の生涯学習や地域コミュニティづくりに尽力。学校と地域社会の連携を進め、市民の学びの環境整備や青年教育など、中野区以外でも自治体の社会教育行政の領域で深く貢献した。

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