植木 等さんの十七回忌
植木 等さんの十七回忌
勝見 博(昭50法律)
3月27日は昭和を代表するエンターテイナー植木 等さん(1947年専門部国漢科卒)の命日です。2007年の3月に亡くなられましたので、今年は十七回忌に当たります。
少年時代から足が速かった植木さんは、東洋大学に入学後、陸上競技部(短距離)で活躍する傍ら、軽音楽同好会を作り、軍需工場等を慰問して回っていたようです。
大学卒業後はミュージシャンとして幾つかのバンドを経て、1957年にキューバン・キャッツ(後にハナ肇とクレイジー・キャッツに改名)にギタリストとして参加します。ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツをレギュラーとする音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』が1961年から日本テレビで始まると、植木さんは茶の間の人気者になります。
筆者も小学4年生から中学校を卒業する頃まで、毎週日曜日の夕方、この番組を欠かさずに観ていました。植木さんが演じる腹巻き・ステテコ姿の男が発する「お呼びでない?…お呼びでない。これまた失礼いたしました!」というギャグは大ブレイクしました。
『スーダラ節』や『ハイそれまでョ』などのコミックソングの大ヒットや、東宝映画の『ニッポン無責任時代』、『ニッポン無責任野郎』や『日本一シリーズ』が次々に興行的成功を収め、植木さんは1960年代に国民的スターとなりました。
植木等の番組の制作に携わったこともある作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、「植木等は<無責任というレッテル>と<底抜けの明るさ>という二つのセールスポイントを把握していたのである。」と評しています。
コメディアンの小松政夫は1964年から約4年間、植木等の付き人兼運転手を務めています。当時のことを描いた著書『のぼせもんやけん2』の中で、「物静かで生真面目な人で、頭ごなしに怒鳴られたことは一度も無い。芸には厳しいが、面倒見が良く、優しくて温かい人」と語っています。この本を原作とするテレビドラマが2017年にNHK総合TVで放映され、付き人として入門する小松政夫に植木さんが「お父さんを早く亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい。」と声を掛ける場面が描かれていました。
1970年代以降、クレイジー・キャッツのメンバーは個人での活動が主となり、植木さんも舞台を中心に、俳優としての主演・助演が増えていきます。映画では、黒澤明監督の『乱』(1985年)、木下恵介監督の『新・喜びも悲しみも幾年月』(1986年)などに出演しています。
植木さん本人が企画した、ヒット曲をメドレーにしたCDアルバム『スーダラ伝説』が1990年に発売されると、たちまちヒットチャートの上位に入り、その年の『NHK紅白歌合戦』にも20数年ぶりに出演し、『スーダラ伝説』を歌った数分間、視聴率はピークの56.6%を記録しました。
ゴルフ仲間でもあった大橋巨泉は著書『366日命の言葉』で、「植木さんはなかなか複雑な人だった。素顔は真面目で、酒もほとんど飲まなかった。ではつまらない男かというと、決してそうではなく、ユーモアのセンスももっていた。何よりも人の話を聞いて、ウケてくれる人だった。そしてあの大笑いをするのだ。晩年、よくゴルフの後に、千葉の拙宅に仲間が集まった。若手の芸人さんの芸を植木さんはウケてくれた。お茶を飲みながら。」と書いています。
晩年の植木さんは、陸上競技部名誉顧問、『箱根駅伝で優勝させる会』初代会長、相撲部後援会長などを歴任し、駅伝では箱根まで応援に出掛けていたようです。
2007年5月に白山スカイホールで開催された『植木等さんとお別れする会』に出席された長女の眞由美さんは、「父は東洋大学がほんとうに大好きでした。」と述べられています。
2009年の正月、第85回箱根駅伝での初優勝を植木さんに観てもらえなかったのは、誠に残念です。
<参考資料>
東洋大学校友会報『哲碧』vol.275(2018年10月)
小林信彦 著『決定版 日本の喜劇人』(新潮社2021年)
小松政夫 著『のぼせもんやけん2』(竹書房2007年)
大橋巨泉 著『366日 命の言葉』(KKベストセラーズ2013年)