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琉球人形の眼差し

琉球人形の眼差し

与儀嘉克(S42経済学部卒業)

私は、東洋大学校友会神奈川県支部の理事をしている与儀と申します。
名前だけで沖縄出身者と思われるのですが、正直に申しますと熊本県で生まれ育ち、東洋大学で学び、神奈川県で仕事をして親を看取り、現在に至っています。

沖縄と言えば、今では大人気の観光スポットですが、悲惨な歴史を抱えた日本で唯一の地上戦があった悲劇の地でもあるのです。
沖縄が本土復帰して50年ということもあり、亡き父が大事にしていた物があったことを思い出し、私はその箱を倉庫から取り出し初めて開けてみました。
そこには、「命の恩人」として父への感謝の気持ちを込めた生徒さんたちのお礼の品(琉球人形)が入っていたのです。
50年間、そのまま入っていた琉球人形は私のDNAを激しく揺さぶり、添えられていた書状などを熟読し、父の過酷な人生、私にも語らずに他界した心の支えを見せられた気持ちになりました。

第二次大戦が、まだまだ連戦連勝中と伝えられている中、学童疎開の説得役にさせられた教師の父は、地元の親たちの大反対に合いながら、自分の母や姉から背をおされか、九州への学童疎開を推進役として実行したのです。
しかし、大型船を含め複数の船に乗り疎開先に向かう途中、対馬丸をはじめ魚雷に撃沈されました。
父の乗船した船は、九州の長崎に上陸し熊本へ向かいました。そこで手厚く生活の基盤を得たのですが、敗戦を迎え沖縄へ帰還する人たちと、熊本に残る人たちに分かれたのです。
沖縄の地上戦で、帰還しても身寄りは全滅したり、荒れ果てた故郷を見るのは忍びないという人たちがたくさんいたのです。
父は反対を押し切り、先導してきた責任感から、帰還しない人たちと共に熊本の地に残りました。
敗戦前後の沖縄は、まさに「去るも地獄、残るも地獄」であったのです。

学童疎開で生き残った生徒さんたちが、父へ贈った琉球人形にはそんな想いが詰まっていたのですね。
そこに父の姿、当時お腹の中に私を宿していた母の姿が浮かんできたのです。

開かずいた箱の中の私が撮った琉球人形の写真です。まるで生きているかのような人形に、私は心の中で合掌したのです。

写真:学童疎開の記念写真と琉球人形

 

 

 

 

 

 

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