全国の支部ブログ

鶏声会のこと

支部会員の古川一司さん(昭45商学)からのエッセイを掲載いたします。

52年続いている同じ寮で交流のあった同期の会についてご投稿いただきました。

支部では、会員の皆様からの掲載原稿をお待ちしています。
どうぞよろしくお願いいたします。

北見支部 支部長 尾関英継

 


 

鶏声会のこと

古川一司(昭45商学)

昭和45年、春。団塊の世代の我々は学園紛争のあおりを受けて卒業式は無く、教室で卒業証書を受け取った。
その少し前、声を掛け合って集まり巣鴨の食堂で送別を兼ねささやかな卒業祝いをした。参加者の多くは全国から上京し、文京区小石川に開設された学生寮で初めての東京生活を始めた元寮生だった。当初は伝通院学寮、のちに小石川学寮と改名した二階建ての「コ」の字形の寮に1年上の先輩8名を含め120数名が一つ屋根の下で寝食を共にし、西片1丁目の電停から都電、あるいは徒歩で通学した間柄である。

入寮して最初の数週間は早朝に隣接する伝通院の境内で先輩の号令の下、校歌や応援歌などの練習。また毎夜行われたのは門限時間の点呼。幅1間ほどの長い廊下に1号から50号室までの全員が壁を背にして2列に並び部屋番号、氏名を大声で発する。遅れた者がいると、連帯責任として全員が板張りの廊下で壁に向かい正座をして帰るのを待った。
当時の学生寮では4年生は神、1年生は奴隷と聞いたが、この寮では「お前たちとは1つしか違わないんだ」という寮長の言葉が象徴するように、理不尽な要求や無理強いも無かったが、点呼での正座は寮の秩序は何としても守るとの思いだったのだろう。
しかし、ほかの大学寮の自治紛争の影響もあってか、1年間で全員寮を出ることになる。短い間だったが色々な学部、出身地の人間の混在する中での生活はある意味、濃密な時間だった。そのことがまた集まろうという声になりこの会は始まった。

その後の集まりで声を張り上げ練習した逍遥歌の冒頭の「鶏声台」を引用し鶏声会と名付けた。当初は交通の便から東京や大阪での開催が多かったが、年月を経て時間が取れるようになると各地の会員が幹事、案内役になり全国を旅行するようにもなる。また、東京開催の折には白山校舎や寮を訪ね、その変遷を見てきた。当時の校舎はもちろん、思い出の寮も隣接の銭湯、カブキ湯もすでにないが、集まれば社長や校長などの肩書に関係なく、半世紀以上も前のことも昨日のことのように話し合い、その中で「実は……」と当時の暴露話が出たりして大いに盛り上がったりもする。当初の20数名の会員の中には音信不通になるもの、鬼籍に入ったものも数名いるが、現在も北から南から10数名が集まってくる。この会が続いてきたのは、実質的な幹事役を長年引き受けてきた静岡の加藤暁君の尽力と、皆が寮で育んだつながりの強さであろう。
第1回目から52年間、コロナ禍で2年見送ってきたが、今秋の25回目開催の案内を受けた後に、再びの感染拡大により延期となったのはとても残念である。

 

 

 

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