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「東洋史研究室」から「島根の文化財発掘」への歩み

東洋大学校友会島根県支部の皆さんへ

月に一回、校友の皆さんから近況等のメールを頂きみなさんにお送りしています。
4月は松江市にお住いの大庭俊次さんからのメッセージです。大庭さんは1987年(昭和62年)文学部史学科を卒業されました。
今回のタイトルは「東洋史研究室から島根の文化財発掘への歩み」です。
現在は、島根県の文化財関係の専門家として活躍されています。
大庭さんの島根の文化財への熱い思いをこのメールで感じることが出来ます。ご一読ください。

島根県支部支部長 福島康治


 

「東洋史研究室」から「島根の文化財発掘」への歩み

学生時代

1982(昭和57)年春、高校時代の恩師の影響を受けて文学部史学科東洋史専攻に進みました。東京へ出てみたかった。望みどおり1年から最後まで白山校舎に通うことができました。不純な動機が最後になって祟ったか、卒論が書けずに五年在籍することになりました。それでも卒業単位ギリギリだった。当時の限界だったと思います。

学生時代の交友関係は広くはありませんでしたが、研究室(東洋史研究会)の皆さんには非常に仲良くしていただいて、楽しい思い出しかありません。しかし、楽しいだけでなく、粘り強く文献にあたり、史料に取り組んで読み込み、一つ一つ研究を積み上げていくことについて、教授陣はじめ、研究室に集う皆さんから教わりました。

学生当時は、資金力に乏しく、行動力もなく、行動範囲は広くありませんでした。今思うと惜しい。もっと東京中歩き回っておけばよかった。アルバイトは多少やりましたが、自堕落な生活をしてしまい、自活できず、家族に迷惑をかけました。

大学を卒業してから、行政発掘調査を生業として

時代は、バブル景気直前の円高不況。私にとっては就職難でした。大学を出てから2年ほどアルバイト生活を送った後、元号が替わったのを機に、1989(平成元)年5月、親のすすめもあり、あてのないまま、生まれ故郷である島根県鹿足郡津和野町に帰ってきました。この年は、家業である農業、米作りと黒毛和牛の繁殖生産を手伝いました。都会地の生活でなまっていた身体に鞭打ち過ごした20代半ばのこの一年が、我が体力の最高潮であったと思います。しかし、米の作柄と子牛の売価は芳しくありませんでした。

縁があり、公共工事に先立つ遺跡発掘調査の調査補助員(臨時職員)の経験を経て、専門外ではありましたが、1991(平成3)年4月から県職員として採用され、文化財保護専門職員として島根県教育委員会に奉職することとなり、今年で30年となります。

私の採用に関しては、了解事項がありました。高速道路建設に係る公共事業を推進するために、避けて通れない埋蔵文化財の発掘調査を推進するための人材を確保するというものです。そのとおり、私の30年は、山陰道(国道9号線と並行する高規格道路)建設に先立つ行政発掘調査に終始しました。安来道路から益田道路まで、県内沿岸部広域で携わりました。
また、唯一変則的な事例としては、東日本大震災からの復興のための公共事業に先立つ発掘調査の応援要員として、文化庁の求めに応じ、島根県から宮城県に派遣され、一年間、宮城県の牡鹿半島や石巻、気仙沼で発掘調査に従事しました。2013(平成25)年のことでした。

荒神谷遺跡の銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個の出土、神原神社古墳の「景初3年(西暦239年)銘」三角縁神獣鏡(日本に二枚しかない)の出土。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の出土。これら国宝級の発見は、いずれも公共工事が発見の契機となっています。私が従事する行政による発掘調査は、公共工事の主体となる国や地方自治体が公費で負担して実施するもので、記録保存であり、破壊が避けられなかった遺跡を発掘調査して、現地保存できなかった遺跡の記録を残す仕事です。

30年、遺跡との出会い

私のこれまでの成果は如何であったのか?国宝級の成果こそありませんが、いくつか取り上げてみます。
担当遺跡は、ほぼ、例外なく、現地保存できませんでしたので、遺物中心に振り返ります。今更ながらですが、あくまで仕事として取り組んでいることです。興味本位で、ただ、面白がって、遺跡となった原始、古代、中世の墓や廃棄痕跡を発掘しているのではないことをご理解いただきたい。工事との調整がつかず、破壊を免れなかった遺跡の記録を少しでも有効な形で後世に残す。このための発掘なのです。

<仏縁>
仏手(ぶっしゅ)
平安時代の木彫仏像の左手首から先(長さ17.3cm、益田市高津町浜寄遺跡、12世紀、益田道路事業、2003(平成15)年)

瓦塔(がとう)
平安時代の山林寺院に鎮座していた円錐形瓦塔屋根(焼き物の層塔のミニチュア、復原直径25cm以上)や寺院特有の土器(安来市黒井田町才ノ神遺跡、10世紀、安来道路事業、1992(平成4)年)

五輪(ごりん)塔
手のひらサイズの五輪塔(仏舎利容器として)(空風輪(上部)のみ、高さ6.39cm、出雲市渡橋町渡橋沖遺跡、13世紀後半~14世紀、出雲バイパス事業、1998(平成10)年)

<青銅器(銅鏡)>
八禽(はっきん)鏡
前期古墳の箱式石棺に副葬された、紀元前の前漢で作られた中国製の青銅鏡。想像上の小動物や小鳥がモチーフ。(直径9.6cm、完形、大田市仁摩町庵寺古墳群、4世紀(古墳の年代)、仁摩温泉津道路事業、2009(平成20)年)

珠文(しゅもん)鏡
中期古墳に副葬された日本産の青銅鏡(直径6.4cm、完形、松江市竹矢町社日古墳群、5世紀(古墳の年代)、松江道路車線拡幅事業、1999(平成11)年)

八稜(はちりょう)鏡
火葬骨の骨蔵器に転用された長頸壺の蓋として使われた八角形の青銅鏡(直径7.8cm、完形、松江市竹矢町社日古墳群、10世紀末~12世紀前半、松江道路車線拡幅事業、1999(平成11)年)

<世界遺産関連>
梨ノ木坂(なしのきざか)遺跡
世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の範囲に接する緩衝地帯にあり、銀山街道につながる道路遺構(石畳道312m、暗渠排水、貯水場、つづら折り構造、切り通し構造)と道沿いに展開する生産遺構(石切場、炭焼窯)、(大田市温泉津町、近世、仁摩温泉津道路事業、2008(平成19)年)

一部ですが、このような遺跡を調査してきました。本稿に挿図や写真図版を添付していないのは恐縮ですが、これらの遺物や記録は、島根県教育庁埋蔵文化財調査センターで収蔵しています。また、出雲市の古代出雲歴史博物館や松江市の八雲立つ風土記の丘展示学習館などで展示されることもあります。また、学術研究に限ってですが、資料を指定して収蔵物を閲覧することも可能です。

島根県の文化財あれこれ

島根県には、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡のような著名な遺跡のほか、隠岐を含め、安来から津和野まで、結構な文化財に恵まれています。一つ一つを取り上げては難しいので、まとまりで照会します。

2007(平成19)年世界遺産に登録された大田市の「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、鉱毒のない、緑に囲まれた(埋もれた)鉱山遺跡です。これは、世界的に見て唯一無二の存在です。また、近年、歴史遺産の活用やストーリー性を重視した日本遺産に選定された7つのストーリーがあります。

津和野今昔~百景図を歩く~(津和野町)、出雲國たたら風土記~鉄づくり千年が生んだ物語~(安来市、雲南市、奥出雲町)、日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~(出雲市)、荒波を超えた男たちが紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(浜田市)、神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~(石見地域全市町)、中世日本の傑作益田を味わう~地方の時代に輝き再び~(益田市)、石見の火山が伝える悠久の歴史~“縄文の森”“銀(しろがね)の山と出会える旅~(大田市)などとして、埋蔵文化財を含めた文化財や歴史、景観、これらを育んだ自然を題材にしたストーリーが設定されています。

皆様、今、このようなコロナ禍のご時世ですが、博物館やその他の文化施設を訪れて頂くなど、是非これらの文化財に触れてみてください。

大庭俊次 文学部史学科(東洋史専攻)1987(昭和62)年3月卒業
勤務先 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター ℡ 0852-36-8608

 

 

 

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