全国の支部ブログ

カムカムTOYO

東洋大学校友会島根県支部の皆さんへ

月に一回、校友の皆さんから近況等のメッセージを頂き、皆さんへお送りしています。

2021年の最後の月である12月は邑智郡美郷町にお住いの木村稔さんからのメッセージです。
木村さんは1976年(昭和51年)文学部英米文学科を卒業されました。卒業後は地元の美郷町役場に勤務され、退職後は地域活動に貢献していらっしゃいます。
タイトルは「カムカムTOYO」です。このタイトルの意味は、メッセージ冒頭に出てきます。「あーそーか」と納得されるでしょう。ご一読ください。

校友メッセージをスタートしましたのは2020年12月です。最初の寄稿は邑智郡邑南町の日髙政臣さんでした。
それ以降、1月田中享さん(安来)、2月伊藤孝浩さん(出雲)、3月田中美子さん(浜田)、4月大庭敏次さん(松江)、5月釜屋啓子さん(出雲)、6月服部克典さん(大田)、7月作野廣秋さん(松江)、8月児玉俊雄さん(出雲)、9月山﨑省三さん(大田)、10月河内章成さん(松江)、11月佐藤浩史さん(出雲)と続き、今回ひと回りして木村さんで13回目となりました。

寄稿して頂いた皆さんには、お忙しい中ご無理を言いお世話になりました。2022年も東洋大学卒業生の皆さんにメッセージをお願いする予定です。宜しくお願い致します。

なお、メッセージのバックナンバーは、校友会ホームページ「支部トピックス➡島根県支部」を閲覧ください。常時ご覧いただけます。

2021年はコロナ禍の一年で苦労続きでした。2022年こそは皆さんにとり爽やかな良い年で有りますようにお祈りいたします。

島根県支部支部長 福島康治


 

「カムカムTOYO」

はじめまして。邑智郡美郷町の木村稔と申します。ちなみに私の連れ合いは安子と言います。最近、友人とか近所の人たちに「稔と安子がテレビに出とるで」と言われます。NHKの朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』のことで、確かに安子と稔が出ています。しかも、内容がラジオ英語講座とともに歩んだ母娘と孫、三世代の女性を描く筋立てです。今まであまり関心もなかったテレビ小説ですが、英米文学科卒の私としては必見のストーリーと思い観るようになりました。

 

-三段ベッドと三畳一間-

冒頭から取り留めもない話をしてしまいました。早いもので東洋大学を卒業して半世紀が経つんですね。

1972年(昭和47年)の春、希望と一抹の不安を抱えながら国鉄大田市駅から寝台特急出雲号に乗り、初めての東京生活に向かいました。初めてという事で父親が仕事を休んでついてきてくれました。当時の寝台列車は三段ベッドでいちばん上の段は湾曲になっており頭が当たりそうで思ったより窮屈でした。夕方、大田市駅を出発し、あくる朝の7時頃到着したのを覚えています。東京への行き帰りは4年間いつも出雲号を利用していました。現在、出雲号は、サンライズ出雲となり、大田市駅からは乗る事は出来ません。時代のながれですね。時には帰省する列車の中で会社の慰安旅行(懐かし昭和の言葉ですが)で山陰方面へ向かう皆さんと一緒になり、車内での宴席に加えて頂いたこともあり、今ではいい思い出です。

東京に着くと早速アパート探しです。大学の近くの白山に三畳一間の部屋が見つかり、そこを間借りすることにしました。二階の部屋の前には大きな道路があり、ひっきりなしに車が通ります。部屋は布団を敷いたらいっぱいで、机は折りたたみ式のちゃぶ台を置きました(今の学生にはちゃぶ台などわからないでしょうが)。
入学式は日本武道館であり、島根に帰る父とはそこで別れました。式が終わり白山の下宿に帰るのに迷ってしまい3時間くらいかかりました。下宿のおばさんに「かわいそうに」と言われたのを今でも覚えています。(あの時代、どこの下宿にも女優の京塚昌子さんのようなおばさんがいたものです)。

入学した1972年(昭和47年)7月、島根は大災害におそわれ、帰省するため東京を出発したものの大阪で足止めをくいました。幸い親戚の家に1週間泊めてもらい、やっとの思いで島根に帰ることができました。恥ずかしい話ですが、東京での外食生活で体重が40キロ台に落ち込み、おまけにパーマをかけていたので、大田市駅に迎えに来てくれた母が私の前を素通りして行きました。「おい、わしだ、わしだ」と言うときょとんとした顔をして「なーんだ、稔か」と言ったのが昨日のようです。その母も14年前78歳で亡くなりました。

-英語教員か、役場職員か。後悔無い選択-

大学へは意外と真面目に通いました。ただ、4年間東京で暮らす中で、自分にはここで一生過ごすにはむいていない所だと感じました。卒論の指導を頂いた高橋教授から都内の私立高校へ行かないかとすすめて頂きましたが、自分は田舎に帰ろうと思いますということでお断りしました。もし行っていれば少しは人生が変わっていたかもしれません。島根と広島の教員採用試験を受けましたが見事におちました。島根と広島の県境の私立高校の校長先生からうちの学校に来てみないかと電話を頂きましたが、なんとなく自信もなく断ってしまいました。親からは怒られました。縁あって当時の邑智町役場(現在の美郷町役場)に採用され、役場職員の世界に入りました。爾来36年間役場生活を送り、10年前に退職しました。

印象深いことは、教育委員会で社会体育を担当していた時、カヌー競技の指導のためオーストラリアから来日していたスポーツ国際交流員と過ごした3年間です。忘れかけていた英語を必死に思い出し、本当に貴重で楽しい経験をさせてもらいました。役場に就職して良かったと思いました。彼が帰国してから数年経って結婚式の招待状が届いたときは感動しました。

また、町民課で戸籍事務を担当したときは、松江地方法務局川本支局に東洋大学校友の釜屋治男さんがおられ色々助けてもらいました。持つべきものは校友でした。釜屋さん、その節は大変お世話になりました。今年に入り隣町の邑南町町会議員に1989年(平成元年)卒の東洋大学校友の野田佳文さんが当選されました。面識はありませんが、校友の島根での活躍は何かしら嬉しく、誇らしいものです。今後も若い方がどんどんで活躍して頂くと良いのですが。

 

-思い出は宝物。大事に守り、未来に羽ばたきたい-

近頃は家の周りの草刈りと格闘しながら自治会や社協の仕事、役場からの頼まれ事をしながら生活を送っています。最近の東洋大学をみると、話題が豊富で特にスポーツ関係では出雲駅伝や箱根駅伝での活躍等目覚ましいものがあります。オリンピック選手も数多く輩出されており凄いと思います。そうそう、レベルは全然違いますが、私も役場在職中、官公庁と自治労の野球大会で島根県代表として全国大会に4回出場することが出来ました。スポーツは良いですね。これも宝物の一つです。

後悔と言えば、役場勤務の頃は、出張で上京することはありました。白山へはいつでも行けると思いながら結局卒業後は一回も行くことも無く、大学の変貌をこの目で見ていない事です。一度は妻と旧白山通りを歩きながら、私の青春の思い出を語ってやりたいものです。「ゴートゥーTOYO」ですかね。

最後に在校生や全国の校友に伝えたいことがあります。私の住む美郷町も中山間地であり人口減に悩まされています。しかし町を挙げて、カヌー競技や山クジラの「美郷町魅力再発見」、仕事や住まいの紹介の「みさとくらし応援ネットワーク」としてUIターンを呼びかけています。どうか美郷町のホームページをご覧ください。きっと地方の良さを理解して頂けると思います。

この頃は大したことをしていないのに、1日が早く過ぎてしまいます。これも人生かなと思います。機会があれば校友会の皆さんとお会いし、遠くなった昭和を語り、思い出話をしたいと思います。同じ時間を生きていたのではないのかもしれませんが、同じ空間には生きていたのですから。

吉田兼好風に『つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書い』たメッセージでしたが、英米文学科の私は、ドナルド・キーン風に徒然草冒頭を英語訳で書き、2021年を終わりたいと思います。

『what a strange, demented feeling it gives me when I realize I have spent whole days before this inkstone, with better to do, jotting down at random whatever —』。

これから寒くなってまいります。校友会の皆様にはお体をご慈愛され益々お元気でお過ごしいただき、良いお年をお迎えになることをお祈りいたします。そして、一日も早くコロナが終息することを願います。

木村 稔
1976年(昭和51年)文学部英米文学科卒業
邑智郡美郷町在住
電話 090-4656-5274
メールアドレス mibo09046565274@docomo.ne.jp

 

 

 

 

 

 

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