全国の支部ブログ

夢を叶えてくれた東洋大学

東洋大学校友会島根県支部の皆さんへ

明けましておめでとうございます。
今年も東洋大学校友会活動に対してご協力、ご支援、アドバイスを宜しくお願いいたします。

今年も月に一回、校友の皆さんから近況等のメッセージをいただき、皆さんへお送りいたします。
このメッセージの主旨は校友が自分の歴史を振り返りながら、校友間のコミュニケーションを深めていく為のものです。
今年も多くの皆さんからメッセージをいただき、ご紹介したいと思っています。

今月と来月は松江市朝日町にお住いの堀江清市さんからのメッセージです。
堀江さんは1973年(昭和48年)社会学部応用社会学科マスコミ専攻を卒業されました。
卒業後はNHKに就職され、全国各局でアナウンサーとして勤務、2016年12月に松江局で退職されました。退職後は山陰中央新報の文化教室講師や雲州算盤の紹介者としても活躍されています。
1月は『夢を叶えてくれた東洋大学』として学生時代の思い出を中心に寄稿していただきました。2月は卒業後の軌跡を寄稿していただきます。
ご一読ください。

なお、1月2日・3日の箱根駅伝では母校東洋大学は総合4位でした。往路は9位と出遅れましたが、復路では粘り強く走り10区最後の局面では3位駒沢大との競り合った激走でした。『その一秒を削りだせ』と東洋大学駅伝チームが胸に刻んでいる言葉通りの走りでした。
私達校友も後輩の頑張りを見習い、今年一年を頑張っていきたいものです。
2022年10月に開催予定の出雲駅伝での母校チームの活躍に期待し応援いたしましょう。

島根県支部支部長 福島康治


 

「夢を叶えてくれた東洋大学」

アナウンサーへの道に立ちはだかった学生運動

「アナウンサーになりたい!」
そんな夢を抱いて大学に入学するとすぐ放送研究会に入会しました。同期の友達と「絶対アナウンサーになろう」と誓い合ったものです。

しかし、その夢は半年で砕かれてしまいました。時代は70年安保の直前。放送研究会は新左翼のセクトの拠点だったのです。先輩たちのオルグ攻勢の毎日。アナウンサーを目指した友達は次々にオルグされ、マイクを角材やヘルメットに変えてしまいました。やがて、アナウンサーになろうと誓い合った友達とは疎遠になり、口も利かなくなりました。私は放送研究会で居心地が悪くなり、夏休み明けには退会してしまいました。

大学構内では暴力沙汰も目撃したこともあります。ヘルメット姿の男性が傷つき床に倒れている光景が今でも鮮明に目に浮かびます。その後全国では学生運動が、内ゲバやハイジャック、拉致事件への関与等、理想とは程遠い暗い歴史を歩んでいきました。

数年前、放送研究会の同窓会に出席しました。一緒にアナウンサーになろうと誓い、その後気まずい間柄になった友達から「堀江君、同窓会で当時の事を語らない方がいいよ!」と事前に釘をさされました。学生運動に青春をかけた人にとってはあの時代は言いようのない後ろめたさがある時代だったのかもしれません。あれから半世紀が経つのに、未だにあの学生運動の時代は「懐かし思い出」ではなく、私にとっては「複雑な思いで」として蘇ってきます。

時事英語の4年間・国蔵先輩の思い出

ところで私は放送研究会をやめた後、テレビ放送研究会に入りました。縁とは不思議なもので、テレビ放送研究会に入ったお陰で憧れだった放送局のアナウンサーになる事が出来ました。テレビ放送研究会は、学生運動とは無縁でしたが、放送局に入りたいという私の様な子供じみた夢を持つ者はいませんでした。「放送局に入るのが夢」と言うと、「そんな人は放送の専門学校に行けば良い」と言われる始末です。

しかし、テレビ放送研究会の合宿で運命的な出会いが待っていたのです。合宿の夜は、座敷に布団を敷き詰めた雑魚寝でした。たまたま隣に寝ていたのが、同じ専攻の先輩でした。今でも忘れはしない北海道稚内出身の国蔵さんと言う人です。卒業後、家業を引き継ぎ市議会議員にもなった人で「堀江君、放送局に入りたいか?」と突然聞かれました。「絶対入りたいです」と答えると、「騙されたつもりで、時事英語を徹底的に勉強しな」とアドバイスをしてくれました。放送局に入るには、アナウンスの適正もさることながら、学科試験が重要だったのです。以来、時事英語を徹底的に勉強しました。

 

添削で赤くなった原稿用紙・神山先生の思い出

更に貴重な出会いがありました。当時NHKのディレクターからNHK放送文化研究所の研究者になった人が東洋大学で講座を持っていました。神山先生と言う人です。ある日、授業が終わると意を決して神山先生に「私は、NHKに入りたいんです、指導をして頂けませんか」と不躾にお願いしました。すると「堀江君、NHKの入社試験は難しいよ。重役の息子でも、学科試験が通らないと入れないよ」と取り合ってくれない雰囲気でした。

しかし、私が取り出した「小さな紙切れ」が運命の流れを変えてくれました。小さな紙切れとは「就職推薦試験の成績表」です。成績は全学年で5番ぐらいだったと思います。実は、合宿が終わった翌日から朝9時に大学の図書館に向かい、授業以外は図書館で英語など勉強をしました。下宿が近かったので、夕食をすますと又、大学の図書館、さらに下宿で夜12時まで学習する毎日でした。アナウンサーになりたい夢が背中を押し、勉強に駆り立ててくれたのです。

「この成績ならNHKに受かるかもしれない。作文を指導してあげよう」と神山先生は言ってくれました。NHKの試験は外国語、一般教養、作文でした。英語と一般教養には自信があったのですが、作文は今一つ自信がありませんでした。何回も作文を書いては先生に添削してもらいました。いつも原稿用紙は、添削の赤ペンでまっ赤になっていました。国蔵先輩と神山先生のお陰でNHKになんとか合格。夢だったアナウンサーになることが出来ました。

思い返すと大学時代は明暗様々な記憶に満ちています。しかし東洋大学に入学したお陰で夢を叶えることが出来ました。他の大学に入学していたら、アナウンサーになるストーリーはなかった気がします。
学生運動に翻弄されない楽しい大学生活を送りたかったのですが、時代は選べませんでした。しかし逆流の中でも自らの人生を切り開くことは出来ました。私に取って学生時代は『複雑な思いに満ちた時代』でした。

堀江 清市
1973年(昭和48年)社会学部応用社会学科マスコミ専攻卒業
松江市朝日町在住
電話 090-8894-5350

 

 

 

 

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