母校支援

【著書彩々】校友・根本文子氏のご著書紹介

正岡子規研究 -中川四明を軸として-

根本文子氏(大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程満期退学)が2021年3月15日に「正岡子規研究 中川四明を軸として」を笠間書院より出版いたしました。

【帯コメント】
正岡子規の「俳句の美学」を見つめなおす時代を超えて愛される正岡子規の俳句。その完成は、中川四明や高濱虚子、夏目漱石といった同時代の文化人との交流を通して形成されたものだった。子規を支えた俳人・中川四明に焦点を当てて、作風の確立と俳句への想いを解き明かす。

著者おすすめの俳句をご紹介

著者より、校友会のためだけに厳選6句を解説付きでご紹介します。が、ご紹介の前にまずは俳句について簡単にご説明します。

俳句は、短歌同様に日本の伝統文化の一つです。どちらも限られた文字数で目の前の情景やそれを見て感じた喜怒哀楽などの感情を描写する「定型詩」と呼ばれます。勘違いしやすいのですが俳句と短歌ですが、違いは文字数と季語(季節を表す語)の有無です。

俳句は、五・七・五の十七文字で、季語が必須となります。ただし無季俳句といって、季語がなくてもよいとされているものもあります。俳句では「や」、「かな」、「けり」といった切れ字を使って、句に切れを作ってリズム感を出すと同時に強い詠嘆(えいたん)を表す、という約束事があります。
※「切れ字」切れる(終止)働きをする字や言葉。
古池や蛙飛び込む水の音 → この「や」が切れ字と呼ばれます。

詠むときのルールは2つ。
① 5・7・5で作る
② 季語を入れる

なお、季語は様々種類がありますので、ご興味のある方は、様々なウェブサイトをご覧になってみてください。引用元:ワゴコロ

それではおすすめの俳句をご紹介しましょう。

■正岡子規 俳句■

夏草やベースボールの人遠し /正岡子規

子規の人生は「天は吾輩の成功を妬んでいる」(虚子宛書簡)と書くほど過酷であったが、日本に野球を広めた人物でもある。打者・走者などの言葉を翻訳し短い間ではあるがキャッチャーとして活躍した。掲出句はもはや立つこともできない病臥の子規が、溌溂と飛びまわっていた日々を回想する句である。その無念の思いを秘めて夏草の向こうに見える野球を明るい写生句に仕上げているのは子規の手柄である。

その人の足あとふめば風薫る /正岡子規

その人、は芭蕉である。芭蕉は子規の大きな目標であった。小説を諦めた子規は俳句の道に進む決心をして東京大学を退学し陸羯南の新聞『日本』に入社する。そして早速芭蕉の「おくのほそ道」に出かける。明治26年7月19日~8月20日までの「はてしらずの記」である。掲出句は福島県郡山近辺で詠まれた。子規は「その面影は眼の前に彷彿たり」と芭蕉の足跡を辿る喜びを記している。

夕風や白薔薇の花皆動く /正岡子規

夕風の中で花の命を見つめるような「白薔薇の花皆動く」の丁寧で平明な表現が白薔薇の美しさを際立てて新しい感覚である。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」・森澄雄の「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」などの花の名句の先駆けと言える。

■中川四明 俳句■

茶の花や細道行けば銀閣寺 /中川四明

京都の俳人中川四明は、生後すぐに京都二条城の城番である中川家の養子となった。明治維新の欧化の中で、俳句を信じ、未来に希望を託して子規の俳句革新をを支えた人物である。お雇い外国人に率先してドイツ語を学び、ドイツ美学やグリム童話の翻訳にも努め、子規にとっては予備門の教師であり、新聞『日本』の先輩記者でもあった。掲出句は、白い茶の花の静かな細道を行く銀閣寺の風情を言い留めていよう。

月暗く悲しや秋の時鳥(ほととぎす)/中川四明

明治35年9月子規が亡くなった。四明は京都の『日出新聞』に「中秋の満月の夜」と題する追悼文を掲載し子規を偲んでいる。6年前の中秋の満月の夜に四明は子規派を応援する初期の俳句結社「京阪俳友満月会」を立ち上げたのである。これが新聞『日本』に掲載されたことにより、子規の新派俳句は急速に広がったのであった。子規は「京都には先輩紫明(四明の旧俳号)満月会を統率して常に俳運の隆盛を致す」と大きな信頼を寄せている。

魔を使ふ婆帰り行く枯野かな /中川四明

明治時代にあって非常に珍しく新鮮な一句である。前書きに「洋書に題す」とある。四明が翻訳したグリム童話には、魔法使いの老婆はよく登場する人物である。この洋書の魔法使いと、日本の古典的な季題である「枯野」の取り合わせが斬新で、黒いマントが風に吹かれて枯野を遠ざかる姿が見えるようである。四明はその著書『俳諧美学』で、西洋の美学に匹敵する日本の美を俳句で説明しようと考えた人物であった。 (根本文子)

 

カテゴリー