母校支援

働きながら学んだ白山

令和334日、国会では「男女格差問題」が取り上げられていました。その場面を見ながら私が過ごした青春時代である1970年代から1980年代を思い出しました。

私は現在78歳です。後悔しないために働きながら学ぶ人生を選択しました。29歳で浜田の定時制高校に入学し、4年をかけて卒業しました。卒業の年は331日午後5時まで働き、その日に夜行列車「急行出雲」で上京し、41日に東洋大学部社会学部に入学。34歳でした。入学式は今も昔も武道館ですが、磯村学長の祝辞でした。入学式では私は学生の席には座らず、周りの保護者席に座りました。何故そうしたのか不思議です。

学生課の紹介で白山校舎の近くのアパートに住み始めました。生活のために昼間の仕事を探すべく職安に通いましたが、34歳のために生活できる賃金をもらう仕事が少なく、苦労したことを覚えています。勤務先は日本橋でしたが、残業なし、通勤時間も短く、通勤定期全額会社負担でしたので大変助かり、5年間勤務しました。


この定期券を使い休日には、三田線・銀座線周辺の店・施設に通いました。国立劇場や、歌舞伎座では学割800円のチケットで一日中観劇したことを懐かしく思い出します。アパートは便利な場所でしたので、浜田高校定時制時代の友人が上京し、狭い部屋でしたが宿泊したり、夜行で上京するので早朝に東京駅に迎えにきて、と頼まれたりし浜田の友人からは重宝されました。

ゼミ友は社会人ですが、病院勤務や公務員が多く、仕事との両立をきちんとしていました。私よりもかなり年上で新聞販売店を経営しているゼミ友もいました。朝刊、夕刊をトラックで受け取りに行き、自分で配達もしていました。いつ睡眠するのだろうかと不思議でした。私は教職の単位を取りましたが、教育実習は連続休暇を取るため勤務先に大変迷惑をかけたのではないかと思っています。

在学を1年間延長しましたが、5年間の東洋大学での学生生活は本当に有意義な青春だったと思っております。東洋大学に部があったことは救いであり幸せでした。社会人を受け入れてくれる高校も大学も少ないですが、部は必要です。人の脳力は若いほど学びに適しています。自分の進路・適性を働きながら学び、見つけることが出きます。

現在、コロナ禍で男女150万人以上が非正規・パートといわれています。自分の力を発揮できず、生活の基盤さえ失っている人もいます。しかし、部があれば学びを通して、人生を切り開くことも可能ではないかと思います。

今、私の生きがいは旅です。昨年亡くなった津和野町出身の画家安野光雅さんの風景画を見ながら旅の想いが膨らみます。アルハンブラ、タージマハール、トピカプ。
世界の風景を旅友から聞くと、まだまだ自分の足で歩くため、体力・知力を維持したいと思っています。

本当に一昔、二昔前のこと。周りの方には役に立たない思い出話だったかかもしれません。しかし、私は青春の回想が出来て幸せでした。最後まで読んでくださり有難うございました。

令和3312

田中美子(昭和57年社会学部社会学科卒)
島根県浜田市

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