母校支援

ライフラインを支え続けて40年以上!

みなさん、初めまして。1979年経営学部商学学科卒業の松尾 輝雄です。ライフラインを支える電工企業で働いて41年。今回はみなさんの生活に密接している電気を供給する企業の1トップとして、振り返った時に「仕事ってなんだろう」についてお話しさせて頂きたいと思います。

小さな頃から身近な存在だった現場

千葉県富里村(現 富里市)で生まれ育った私は、少年期からものづくりが大好きで、いろいろなものを解体してしては再度組み立てることを遊びとして楽しんでいました。小学校から中学校ぐらいの頃だったと思いますが、1966年7月に成田市三里塚を中心とした地区に成田空港を建設することが閣議で正式に決まり、建設地決定の動きと前後して反対同盟が結成され、反対運動の高まりを見せていました。新たな時代環境の中、生活の為に父は航空関係の工事と農業をこなし、農閑期には都心の現場まで行くという日々を送っていました。

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中学校に通っているときのことです。父から南信電設の臨時作業員としてアルバイトの誘いがあり、前述のようにものづくりや細かい作業が得意ということもあって、働いてみることになるのですが、今思えばこれが現職につながるきっかけだったかなと思います。早速働いてみると、この電気工事というものは極めて公共性が高く、奥深い仕事であることがすぐにわかり、常に驚かされる日々でした。よほど自分にはあっていたのでしょう。結局大学入学後も春夏秋冬、長期間の休みごとに都内各所の工事現場で臨時作業員として働いてしまうほどでした。

そして大学4年。卒業後の働き口を探さないといけないということで、安定的な職業として公務員を目指し、地元の消防試験を受け見事合格!さぁこれで晴れて社会人を迎えるだけだ!というときです。南信電設の先代社長より「うちで働かないか」とオファーが!突然の申し入れに驚き悩みましたが、熟慮の末に公務員よりも未来に残せるものができるのではないか?そしてこの会社で新風を吹かせようと前向きな気持ちになり、南信電設にお世話になることを決意したのです。

ライフラインを支えて40年以上

南信電設は、1973年に新川電気工業株式会社からケーブルの布設工事を中心として活動する会社として新設されました。電気工事業の分野は対象範囲が大変広く、原子力発電所設備関係事業や、発電所から近郊の変電所まで電気を送る架空送電線路関係の事業、そして弊社のような近郊の変電所から都心部の変電所へ地下設備を利用して送電する地中送電線の事業まで多種多様化しているのです。身近な存在である室内配線や照明設備・エアコン設備といった町の電気屋さんも電気工事業の範囲に入りますが、そういったものも含めた電気工事業について全体枠を知る人は少ないのではないかと思います。

各布設※現場の状況(※敷設と同義語)

1979年の入社以来41年が経ちますが、この間様々な現場で経験を積んできました。記憶の新しいケースでは2011年に発生した東日本大震災発生後、原子力発電所の全面停止に伴う火力発電所から都心への電源供給線路増設工事の実施、最近では新宿変電所〜城南変電所区間の新宿城南線においてケーブルの高経年化による3回線ケーブルの引替工事の実施など常に現場に出ている状態です。

今後のスケジュールも当面は埋まっており、コロナ禍といえども電気を止めるわけにはいきませんから、現場で働く社員の健康を気遣いながらということになります。まだまだ振り返る年齢ではないと自分は思っていますが、止めてはいけないものを守るという使命=まさにミッションが「自分のやりがいの源泉」になっているのは間違いないと思います。

地下布設状況

自分のミッションを歩む人生は、誰にも代替されない

周囲からは大変な肉体労働と思われ、相応の覚悟も必要なのは事実ですが、やりたいことが形になっていくのを見るのは何にも代えがたい喜びがあるのです。食うために稼ぐ“ライスワーク”とは違い、一生を賭けられる“ライフワーク”が得られると思っています。

あって当たり前の電気。我々としても皆様の生活を支えているんだという使命感をもって日々働いています。最近では若手の労働力不足によって職人の高齢化が進み、ライフワークの根底が崩れかねない危機が迫っているのも事実です。若い世代には「ミッション志向」も視野に入れて職業を選択することも大事なことだと思いますが、もっと社会に貢献できる仕事や企業に目を向け、自分を磨いて欲しいのです。勿論、ライフラインを守る仕事に興味を持ってくれたら嬉しい限りです。

1979年卒業
経営学部商学科
松尾 輝雄
南信電設株式会社
https://www.nanshin.co/

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