母校支援

人の痛みがわかるからこそ支援できること

こんにちは。1996年に社会学部を卒業した井上修一です。現在、大妻女子大学人間関係学部で福祉分野の研究をしております。昨年、「特養入居者家族が抱く迷いと家族支援」という本を出版し、校友会でも紹介していただきました。今回は、私の東洋大学での思い出について、お話したいと思います。

失意の中、転機を求めて上京

1992年に東洋大学社会学部社会福祉学科の1期生として入学しました。実は、夢をもって東京に来たわけではありませんでした。山形中央高校で野球に打ち込んでいたものの、肩を怪我して悔いの残る形で高校生活が終わりました。その時は深い喪失感から人生の終わりのように感じたものです。そんな絶望を払拭するために地元を離れたかったというのが上京の一番の理由でした。

社会福祉学科を選んだ理由は、中途障がいの方の障がい受容や再起のプロセスを学びたいという思いがあったからです。自分の高校生活と重ねて、絶望や人生の苦難に直面した方の立ち直りを支援したいという思いがありました。

新たな自分探しに手を貸してくれた仲間たち

小学生から野球しかなかった自分にいまさら何ができるのか、新たな自分探しも大学での目標でした。音楽で自分を表現しようとジャズサークル(グルービー・サウンズ・ジャズオーケストラ)に入り、アルトサックスの練習に4年間励みました。

本当に練習漬けの毎日でしたが、そこで出会った仲間のことは1日も忘れたことはありません。未熟で不完全な自分に対し、時間を共有し、いつも励ましてくれました。離れていても、濃密な時間を共にした仲間にはいまも感謝しています。

在学中は応援指導部(グレート・ビー)の要請で、神宮球場に楽器を持って野球の応援に行ったこともありました。当時の東洋大学硬式野球部には、清水隆行選手(ジャイアンツ)、今岡誠選手(阪神タイガース)等の有力選手が勢ぞろい。東都大学一部リーグ優勝を果たすなど目覚ましい活躍をしていた彼らを、朝霞や白山キャンパスで見かけたのも楽しい思い出です。

大学同様に恵まれた大学院時代

卒業後は、障がいをもった方の支援に携わるつもりでいましたので、音楽と勉強を両立していた証として、在学中に社会福祉士国家試験に合格することができましたが、大学院進学にも魅力を感じ、さらに勉強を続けることにしました。大学院でも、先生や仲間に恵まれ、そして助けられました。

感謝を伝える意味も含め、当時お世話になった先生について触れたいと思います。佐藤豊道先生には、大学1年からお世話になりました。先生の研究室で卒論指導を受け、大学院へ進学後も修士論文、博士論文の指導に加え、研究の作法、緻密さ、厳しさについてもご指導頂きました。

研究室を訪ねることが苦手な自分に先生から声をかけてくださり、わざわざ指導の時間を作ってくださったことは、いまでもありがたく感じています。

左:故園田恭一先生の退職を記念してまとめた著作 右:これまで出版した著作

故園田恭一先生は、大学院の指導教授です。毎日、深夜まで研究室に残っていらっしゃる先生の姿が思い出されます。働きながら大学院・博士課程に通っていたため、仕事帰りに白山キャンパスに行き、大学院への提出書類を持参した際も、嫌な顔一つせずにその場で書類を書いてくださいました。

先生の退職を記念して本を出版できたことは良い思い出となりましたが、何のご恩返しもできないうちにご逝去されたことは悔やまれてなりません。

古川孝順先生にも厳しくも温かいご指導を頂きました。博士論文の柱となるテーマに関して背中を押してくださったのは古川先生です。研究室の鍵を貸してくださり、資料を自由に閲覧させて頂いたこともありました。自分の恩師と呼べる先生です。

小林良二先生は、大学院博士課程で苦闘する自分に寄り添い、論文の糸口を見出してくださいました。自分にとって小林先生は恩人であり、研究者、教育者の理想で、憧れの先生です。

故窪田暁子先生には、東洋大学・大学院でご指導頂いたあと、岐阜県の中部学院大学に赴任してから3年間一緒に働かせていただく機会を得ました。先生のお言葉一つひとつが今でも自分の宝物になっています。

東洋大学で出会った先生方、仲間たちは得がたい財産です。自分を育てれくれた母校、東洋大学に感謝しています。

1996年卒業
社会学部社会福祉学科
井上 修一

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