母校支援

議論を重ね、学び、そして培われた鋭い洞察力

人生の意味を自問した高校時代を経て哲学科へ

46年前の1975年4月、わたしは東洋大学に入学した。内心に屈折を抱え、人生トハ何ゾヤと、自分に向けて問いかけていた高校生にとって、哲学科は最適の進路であると思われたからだ。

目の当たりにした学生運動で上京を実感

当時の白山キャンパスは手狭で、すでに川越キャンパスへ一部の学部の移転計画が公表されていた。学内では移転反対の運動がなされ、計画撤回を訴える立て看板があちこちに立てかけられていた。入学早々、度肝を抜かれたのは、ヘルメットにゲバ棒をもったデモ隊が、移転反対を叫びながら正門からの坂道をジグザグ行進している光景だった。

70年安保闘争やベトナム反戦運動など、ニュース映像でしか見たことのなかったデモ行進が目の前を通過していったとき、東京に出て来たという実感がここで湧いた。その後、反対運動に関わっていた哲学科の後輩が当局の雇ったガードマンによって暴行を受けるという傷害事件が起こったことで、わたしもさまざまな集会に顔を出すようになるのだが、基本的にノンポリだったわたしは運動に深く関わることはなかった。

探検部として単身ニューギニア島

哲学科の授業は、怠け者のわたしにはとてもついて行けず、早々に落ちこぼれていくのだが、その分、探検部での活動にのめり込み、19歳の夏、何の準備もなくニューギニアに行くことにした。探検部の先輩たちが「カリマンタン学術調査隊」として、インドネシアのカリマンタンに出発するのに同行させてもらい、ジャカルタまで一緒に行き、そこからひとり分かれてニューギニア島のインドネシア領西イリアンに向かったのである。

当時のインドネシアは、学生がビザを取得するためには所属する学科の主任教授の推薦状が必要だった。行き場を失った日本赤軍が海外でテロ活動をおこなっていて、インドネシア政府は学生の渡航に神経質になっていたのである。わたしは、哲学科の主任教授を三鷹のご自宅に訪ね、渋る先生に「哲学を説いている先生が、推薦状も書けないのはおかしいのではないですか」と生意気を言い、その場で推薦状を書いてもらった。この時のことを思い返すに、礼儀知らずの無礼な学生を受け入れ、推薦状を書いてくれた先生の懐の深さに感じ入るばかりだ。

帰国後は、借りた渡航費の返済でバイトに明け暮れることになり、以前にも増して授業に出なくなった。主なバイト先は、地下鉄白山駅近くの喫茶店で、夜は二部に通う社会人の学生が授業に向かう前、よくここで軽食を取っていた。そんな社会人グループのひとつが、いつもフロア中を動きまわり、席から席へと注文の品を置いていくわたしを苦学生と勘違いしたのか、声をかけてくれるようになった。その彼らが、今日は給料日だから君への激励品を買ってきたといってジッポーのライターをプレゼントしてくれたうえ、授業には出るようにと親身に諭してくれたのである。

恩師との議論の中で学んだ思考方法を携えジャーナリズムの世界へ

落ちこぼれのわたしが、曲がりなりにも卒業できたのは、フォイエルバッハの研究者でもあった暉峻凌三先生のおかげである。先に触れた暴行事件が発生した際、暉峻先生は抗議の意思を表明し、学生との討論会にとことん付き合ってくれた。わたしも、何度か先生のご自宅を訪ね、先生に議論を吹っ掛けた。その際、目先の現象だけでなく、いかに深く考え、物事の本質を見極めることが大切かを教えていただいた。

この時学んだ思考方法がなければ、いまの仕事を続けることはできなかったはずである。卒業後は、雑誌ジャーナリズムの世界に潜り込み、今日までなんとかやってこられたのも、母校で得た先輩や同窓の温情、そして先生方のご指導があってのことだ。

2005年の「校友会創立110周年記念校友大会」に講演者として呼ばれ、大先輩で大ファンであった植木等さんや、俳優、司会者として活躍されている神太郎さんと同席できたことは忘れられない思い出である。

1979年卒業
文学部哲学科
岩瀬 達哉
ジャーナリスト

2004年、『年金大崩壊』『年金の悲劇』により講談社ノンフィクション賞受賞。同年、文藝春秋読者賞受賞。2020年、『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』によって日本エッセイストクラブ賞受賞。新著は、『キツネ目 グリコ森永事件全真相』。

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