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そろばんロード・奥出雲からハンガリー

高木俊朗さんから学んだジャーナリストの使命

島根県立松江南高等学校を卒業して、東洋大学に進学。1973年4月にNHKに就職しました。在職中の印象的な仕事は特攻隊と原爆被爆者の取材でした。戦争の歴史を語り継がねばならないという思いでした。取材対象に高木俊朗さんがいました。菊池寛賞を受賞されたドキュメンタリー作家です。太平洋戦争中には『大本営発表を宣伝する陸軍報道班員』として特攻隊や、インパール作戦を取材しました。

「戦争中は大本営が発表するウソを報道していた。真実を報道すべきと思い、戦後、特攻隊の生き残りや遺族を訪ね取材をした。戦争の真実を本に書くことで悲惨な戦争を防ぐ力になると思い特攻をテーマに本を書いた」と語っていました。私は、45分の録音構成にして「ラジオ深夜便」で全国放送をしました。また、昨年亡くなった広島原爆被害者団体協議会理事長の坪井直さんとも親しくして頂きました。NHKのアナウンサーとして、ジャーナリストとして、そして一人の人間として、様々な方々から「戦争を語り継ぐことの重要性」を学んできました。

ふるさと島根のNHKに還る

23年振りに故郷の松江放送局に転勤で帰りました。

「清ちゃん、局長で帰ったのではないかや」

と、いとこに言われました。

「いや、普通のアナウンサーで帰ってきました」

と私は答えました。

その時の役職は副部長でアナウンサーの責任者ですが、他のアナウンサーと同じ様に、早出、泊り、中継や番組の制作まで何でもしなければならないハードなポジションでした。

ところで、島根に帰ったのに、ふるさと島根の事をほとんど知りません。小泉八雲・ヘルンさんの名前は知っていましたが、どんな事をした人か分かりませんでした。石見や隠岐には行ったことすらありませんでした。そこで私は『故郷に帰ったこの機会に、あちこち取材に行って島根の事を知り、放送で発信しよう』と決心しました。

ドジョウ掬いスター荒木師匠との出会い

島根の事を知るにはまず、何から始めようか?と考えた末『そうだ!ドジョウ掬い踊り』を勉強しようと決めました。ドジョウ掬いと言えば、島根のスター、荒木八洲雄師匠に習おうと思い、荒木師匠の門をたたく事にしました。しかし、荒木師匠の家に行くと門がありません。直接玄関をたたきました(笑)。玄関を開けると「ウエルカム堀江さん!」と荒木師匠は、ヒョーキンに迎えてくれました。

「師匠。僕は局長になって故郷に錦を飾れなかったんですよ」と言うと、荒木師匠は「堀江さん。アナウンサーで故郷に帰って正解!」と言ってくれました。

荒木師匠が言いう通り、アナウンサーで帰って正解でした。テレビやラジオで放送するのが仕事ですから【島根出身のアナウンサー】という事で皆さんに親しんでいただきました。取材に出向くと「堀江さんは、島根、奥出雲町の出身ですね」と親しくしてくれました。私は、松江に転勤するまで「農村の地域振興」に関心を持って各局でリポートを行っていました。

幸運な事に私のふるさと奥出雲町は「地域振興」に熱心な町です。全国で初めて過疎債を使って空き家をリフォームして農村生活をしたい人に「町営住宅」として貸したり、タイの農村とそろばん交流をしたりしていました。二つとも放送でリポートしました。

人気復活!雲州そろばん

そのうちそろばん産業に関心を持つようになりました。奥出雲は「雲州そろばん」と言って兵庫県の「播州そろばん」と並ぶそろばんの産地です。二大産地とは言ってもそろばんは、電卓やパソコンに押されて衰退の一途をたどっていました。そうした中、あるそろばん会社の社長さんと雑談をしていたら「最近、そろばんが売れていましてねー」と言うのです。

「エッ!そろばんが売れている。どうしてですか?」と聞くと、子供の能力開発にそろばんが役に立つことが注目される様になり、大阪や東京等の大都市のそろばん塾や学校でそろばん教育が盛んになったのです。

「社長!それスゴイ情報じゃないですか。取材をさせて下さい」とお願いし、大阪、京都まで出向いて取材をして『人気復活!雲州そろばん』と題してリポートをしました。全国放送にも売り込みましたが、時間枠が無くて中国地域放送にとどまりました。(残念!)この番組がきっかけで「そろばん」にのめり込むことになりました。

画像はイメージです

数学大国ハンガリーのそろばん教育

奥出雲町では毎年8月に西日本有数のそろばん大会が行われます。この大会にハンガリーの子供たちが参加したことがある事を知りました。

『ハンガリーでそろばん?』

ハンガリーでは、どんな風にそろばんを使っているのか知りたくなり、何か伝手が無いか探りました。当時ハンガリーの子供たちを迎え、ホームスティーをした人に聞くと「バタバタしていて住所を聞くのを忘れてしまった」と言うのです。

しかし、何処に情報が転がっているかわかりません。町役場に、当時の記録が残っていることが分かりました。資料を読んでいたら、「考えるそろばん普及会」の文字が目に入ってきました。この会がハンガリーとそろばん交流をしているに違いないと思い、電話をして見るとその通りでした。大阪のそろばん塾の先生たちの会で、ハンガリーへ日本の古いそろばんを送る等の交流をしていまたのです。そこで2003年と2006年の2回、そろばんの先生達とハンガリーを訪問し取材しました。

ヨーロッパの中央部にあるハンガリーは、数学教育に熱心な国です。ハンガリーでは全国の10分の1の小学校で、【算数教育にそろばんを取り入れている事】が分かりました。日本では、そろばんは「速く正確」に計算をする事が目的です。所がハンガリーでは「算数の教具」として使われています。算数の問題をそろばんを使って考えるのです。

①(そろばんの)2つの珠を使って、20より小さい2桁の数は?
②3つの珠を使って、6より大きく10より小さい数は?

答えは①11と15 ②7です。
つまり「考える」為の教材としてそろばんを使うのです。

そろばんを算数の教具として使う。日本では考え付かなかった使い方です。さすが数学大国ハンガリーでした。更にハンガリーでは、そろばんの全国大会もあるのです。私は、ビデオカメラを持って参加し小学校でのそろばん教育、そろばんの全国大会等を撮影しました。全国大会の最優秀の賞品は雲州そろばんでした。奥出雲町のそろばん会社から贈呈されたものです。

日本製のそろばんはハンガリーの子供たちに大好評でした。ハンガリーからは、ハンガリーの算数に役立つそろばんの使い方のテキストを和訳させてもらい「日本人用のテキスト」を製作し、日本のそろばん塾の教材として使うことになりました。日本のそろばん教育の幅が広がりました。このハンガリー式のそろばんが「クイズみたいで面白い」と日本の子供たちに好評です。

人生は白騎の隙を過ぐるが如し

故郷に放送に直接携わるアナウンサーとして帰ったお陰で、島根に密着した放送を地元だけでなく全国にも発信出来ました。更に放送だけでなく、地域貢献にも参加出来ました。「堀江さん。アナウンサーで島根に帰って正解!」と言ってくれたドジョウ掬いスター荒木八洲雄師匠の言う通りでした。

奥出雲、NHK、松江、ハンガリーと連なる人生で数多くの人々と出会い教えを受けてきました。そして、白山での4年間は私を支えてくれたバックボーンとして、かけがえのない貴重な青春でした。

 

1973年(昭和48年)
社会学部応用社会学科マスコミ専攻卒
松江市朝日町在住
堀江 清市

 

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