母校支援

全敗の川高野球、ケ・セラ・セラ、そして120歳へ

「え〜っ無理ですよ〜。無理無理絶対無理〜っ!」「はぁ〜わかりました」

今年の1月中旬、福島支部長から校友会メッセージ寄稿の依頼電話での私の第一声と渋々承知した際の言葉です。まだ締め切りは先だから、まぁいいやと思っていたらもう3月、昔の記憶をたどりながら書きました。

申し遅れました、江津市桜江町出身、1984年(昭和59年)経済学部経済学科卒業の藤田紀之と申します。

さて、引き受けてみたものの諸先輩方みたいな気の利いたエピソードもなく本当に困り果てました。卒業からもうすぐ40年になり記憶の曖昧なところがありますが、そこはお見逃しください。

私が東洋大学へ入った理由(わけ)

私は、さほど裕福な家庭ではなかったのですが、漠然と都会の大学生活に憧れる田舎の高校生でした。
親からは国立だったら行かせてやると言われ、当時始まったばかりの5教科7科目の「共通一次試験」を松江に受けに行った記憶があります。

近所に新聞配達をしながら神戸の大学を卒業し、近隣の私立高校の講師をしながら私の川本高校の野球部(3年間公式戦全敗の史上最弱野球部の捕手でした)のコーチをされていた先輩がおり、その方の影響もあって『僕も新聞配達をするから、仕送り無しで良いから、とにかく東京へ行かせてくれ』と親を説得しました。

2月になり、八王子に住んでいた大学生の従兄のところに転がり込んで7割東京見物、3割受験の3週間を過ごしすっかり都会の魅力に取りつかれてしまいました。そんなことなので東洋大学以外にMARCH2校を受験したのですが見事に玉砕して、最後の東洋の試験当日も白山に行く途中慣れない満員電車で気持ち悪くなり、京王線の千歳烏山駅で途中下車しトイレに駆け込みました。そこですっきりしたからかどうかわかりませんが試験もうまくいき運よく合格となりました。

※MARCH:明治大学(M)、青山学院大学(A)、立教大学(R)、中央大学(C)、法政大学(H)の頭文字をとったもの。

私の大学時代は新聞配達

読売育英奨学会を利用し、下宿は東武東上線の東武練馬と下赤塚の中間どころにあり、1,2年生時は朝4時起きで朝刊配達、朝霞台の朝霞キャンパス、夕方4時から夕刊配達と集金、勧誘で夜の8時まで。月10万前後の給料と朝夕の食事つき、部屋代(四畳半一間のアパート)光熱費ただ、入学金、学費も奨学会からの奨学金(返済免除)が出たので結局親との約束通り仕送り無しの4年間でした。

夕刊配達の時間がありあこがれていた大学のサークル活動が出来ませんでしたが、新聞奨学生の同僚には大東文化大学、日大、専門学校生、予備校生達がいて彼らと池袋あたりでよく遊んだものでした。3、4年生時は白山キャンパスとなり毎週水曜日の午後は休みをもらってゼミに出席し、帰りは大宮とか浦和から来ていた同級生と池袋で飲んで帰るのが定番になっていました。

ゼミは小倉欣一先生のゼミで、中世のヨーロッパ経済史、ドイツ中世都市、職人のギルドの歴史、死刑制度などを調べた記憶があるくらいです。水曜日は東都リーグの試合日と重なり、よく先生も一緒に神宮球場へ応援に行ったものでした。当時は仁村徹氏などがいて春のリーグ戦は優勝し、全日本は小早川、西田とかがいた法政大学に敗れて準優勝だったと思います。

お揃いのトレーナーの同級生と小倉先生を囲んで(私は左端)

私のテキトーな就活

さて、4年生になり就職をどうしようかと思い始めたころ、DMで来た証券会社のセミナー案内に興味をひかれ一度話を聞きに行きました。経済学部だからなんとなく銀行か証券かを考えており、当時はまだ週休2日制ではなかったのですが、証券会社は月2回の土曜休み、あとの土曜は午前中出勤、年末は28日で終わりでした。(銀行は大晦日まで仕事)その程度の理由で証券会社もいいかなと思い始めていました。

セミナー後の6月ごろ会社から「一度来てくれないか」と電話があって、その会社が岡三証券。担当が大和さんという方。なんと東洋大学出身でした。その頃はまだ就活用のスーツも買って無く、ポロシャツとジーパン姿。おまけに朝刊終わりの6時ごろからちょっとウトウト寝てしまい気が付いたら10時。約束の時間を11時から13時に変更してもらい何とか面接した記憶があります。

その後なにも連絡がなかったのですが、親からは就職はどうするのかと言ってくるし、自分でも気になっていたので、8月の盆前に直接大和さんに電話してみました。

私「あの〜、6月に面接した藤田と申しますがその後どうなったのでしょうか?」

大和さん「あ〜、藤田君ね。まだ言えないんだけど君、内定だから。10月1日は晴海のホテルにきてね。あとで案内だすから。」

私「は〜、有難うございます」(安心してしまい身体中の力がぽっと抜けた感じを覚えています。)

あとから解ったのですが、当時の就職活動は10月1日が解禁日となっており、どこの企業も10月1日に一斉に内定式をして学生を缶詰状態にしていたものでした。無事内定をもらい、あとはどこに配属になるのかなと(都内を希望していました)思っていたころ、12月ごろに再び大和さんから電話がありました。

大和さん「あ〜藤田君?君はナバリシテンに決まったから!」

私「名古屋ですか、わかりました」(東京を離れるけど名古屋も都会だから、まぁ〜いいかと一瞬思いました。)

大和さん「ナバリ!だよ、名張!三重県の名張市だよ!三重県は岡三の地元だからやりやすいよ、頑張ってね!」

調べてみると、岡三証券の創業者は三重県津市出身で支店が全国約50店舗のうち三重県に8店舗もありました。当時の名張市は大阪難波から近鉄電車で一時間弱であり、ベットタウンとして山を切り開いて宅地造成が進んでいて人口増加率では全国一位の市でした。

私の大学最後の試験

1984年(昭和59年)2月卒業前の最後の試験の時、何の教科だったか、レポート提出か、試験勉強か、忘れましたけどとにかく徹夜して仕上げたことがありました。明け方一息ついたときついウトウトして目が覚めたら昼の3時。何のために徹夜したのやら、がっくりしてぼーっとしていたら実家から電話があり、祖母が亡くなったから帰ってこいという知らせでした。

当時、弟が名古屋で働いており車を持っていました。翌日朝一番の新幹線で名古屋迄行き、そこから弟の車で島根を目指しました。夜になり広島県境あたりで雪が深くなり、二人でチェーンをはめ通夜が終わったころに実家にたどり着き、翌日の葬儀には参列することができました。

あのまま寝坊せずに試験を受けていれば最後の試験の打ち上げという事でアパートに帰っているかどうか。その時寝過ごして試験を受けなかったのは祖母が呼んでくれたのかなと思っています。
尚、卒業のための単位はそれまでに取得していました。

私の箱根駅伝

子どもがまだ小さかった頃は毎年お盆かお正月のどちらかに妻の実家の三重県に家族で帰省していました。平成21年のお正月は妻の実家で過ごしており、2日は朝からなんとなく箱根駅伝を見ていたのですが、例年のごとく東洋大学は10位前後の定位置をキープしていて、テレビにもそんなに映らなかったので昼前に近所のショッピングモールへ買い物に出かけました。

家電売り場の前を通りかかると盛んにアナウンサーが「東洋大学!東洋大学!」と叫んでおり見てみると、1年生の柏原竜二選手がケタ外れのスピードで箱根の山を登っていく映像でした。これには本当に感動し、それ以来鉄紺東洋の大ファンになりました。出雲駅伝も応援に行きたいとは思っていますが、仕事の関係や都合がつかずいつもテレビで応援しています。

私の座右の銘はケ・セラ・セラ

東洋大学卒業後、三重県で証券マン生活をスタートし、松阪市出身の嫁を貰い、愛媛県宇和島、広島県で電子部品の工場勤務、地元に帰って温泉ホテルの支配人、今は保育所と老人ホームの事務、子供は一男一女、その二人もおととし結婚し去年コロナ真っ盛りの中、東京と広島で無事披露宴を済ませました。秋には初孫の予定です。

令和4年3月19日運営する幼稚園での卒園式

振り返ってみて、私の人生は「ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)」だったと思います。先のことを気にしても仕方ない。今を精一杯生きる事が大事。何事もなるようになるさ。(ヒッチコック監督の映画『知りすぎた男』の主題歌で、ドリス・ディが歌いました。)

新聞奨学生を教えてくれた野球部のコーチ、都会の魅力を教えてくれた従兄(彼は去年広島の中学校の校長を定年退職しました)、東洋大学OBの大和さん、島根の田舎までついてきてくれた松阪出身の妻。その他いろいろな人に助けられ今日までやってこられたと思います。本当に支えてくれた皆さんに感謝、感謝です。

昨年還暦を迎えたときに、「これからは晴耕雨読でのんびりしようかなぁ〜」と私が言うと、「お父さん、人間は生物学的には120歳まで生きられるようになっているそうよ。家のローンもあるし、まだまだ働いてもらわないと困ります!」と妻に叱られちゃいました…。

世の中はなかなか収まらないコロナウイルス、ロシアのウクライナ侵攻、それに伴う経済不安となにやら気持ち悪い毎日が続きますが、校友会の皆様におかれましてはどうぞお体に気を付けてお互い120歳まで頑張りましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

1984年(昭和59年)
経済学部経済学科卒業
藤田 紀之

江津市桜江町
電話090-2808-6489
メールアドレnori-taka0724@utopia.ocn.jp

カテゴリー