母校支援

西片女子寮からはじまった島根女子のワクワク・ドキドキ

頼りがいのある寮友たちと過ごした青春

1979年(昭和54年)4月、お上りさんの父と私は花の東京駅に降り立ちました。いきなり独り暮らしは心配なので、賄い付きの寮である西片女子寮に入ることにしました。寮は古い建物で、2名1室、お風呂もトイレも共同でしたが、冷暖房完備で土日祝祭日以外は朝・夕の2食付きでした。仲良くなったメンバー  7~8人、新潟や静岡、山口などの地方出身者でおやつを持ち寄り、毎晩集まりおしゃべりに花を咲かせ、寂しさはみじんも感じずにすごしました。

寮では多くの友人もでき、寮監さん寮母さんも親切で安心できましたが、問題が一つありました。それは、門限が午後10時だったことです。私は、あちこちの大学のサザンオールスターズ等の野外コンサートによく出かけました。ときには、門限に遅刻しては大目玉を食らいながらも、門を開けてもらっていました。度重なるとさすがに電話もできず、同級生のアパートに泊めてもらいましたが、怖いとも思わず知らない世田谷を夜遅く一人歩いた記憶が甦ってきました。今考えるととても恐ろしい事をしていたと思いますが、「いとしのエリー」の魅力には勝てなかったのでしょう。

寮は1年間だけで、2年目からはアパートで一人暮らしを始めました。一人でアパート探しをしたのですが、結局は寮の友人が住んでいるアパートの向かいに部屋を借り、彼女たちと銭湯に行ったり、食事をしたりと卒業まで寮の友人に頼っていたようです。夏休みには、寮の友人と広島や山口、福岡など旅行にも出かけました。島根にも3人が遊びに来てくれました。出雲大社や八重垣神社、松江城などを案内した懐かしい写真がでてきて、楽しかったキラキラした日々を思い出しました。

中央赤い服が寄稿者。1980年夏、出雲大社鏡の池の前で。

西片女子寮は閉寮になったと伺っていますが、当時通学した都営三田線や春日駅のことも、通った道も忘れ去ってしまいましたが、この寄稿を書きながらふっと「西片女子寮のおやつパーティー」のメンバーの顔や、寮の部屋で集まっていた情景が浮かんできました。皆さん元気かな?

アパート暮らしでは、コンサートなども自由に行くことができ、学外の友人も多くできました。学外の趣味の活動で親しくなった友人は、女性ばかりでしたが高校生、短大生、大学生、社会人、主婦と様々で、「マイタイ」と名付けて、音楽鑑賞や観劇、旅行などに出かけていました。彼女たちと過ごすことが毎日の日課となっていました。

それでも学生ですから、授業にも思い出が沢山あります。2000年(平成12年)から数年、大学と短大の学長をされた神田道子先生の講義です。当時は助教授でしたが、「女性と労働」に関する講義は今も印象深く残っています。(後日、神田先生が学長に就任された事を聞き、やった!と感動したものです)。単位は落とさぬよう講義を受けに大学に通いましたが、4年生になっても卒業後の就活など一切していませんでした。当時、もっと就活していれば島根に帰っていたのか?人生が変わっていたのかもしれません。今は、この選択でよかったと思っています。

ふるさと横田・燃えた青年団活動 衝撃的なふるさと研修

1983年(昭和58年)3月に日本武道館で卒業式を終え、教職に就こうと考えていたものの就活をしていなかったため、就職もせず、一旦島根の自宅に戻り、親のすねをかじることになりました。

公務員試験等の勉強をしながら、自動車教習所に通い、国の事務所で臨時職員として働き始めました。1984年(昭和59年)には、早々と教職をあきらめ、町教育委員会で社会教育指導員として就職しました。厳しくも優しかったよき先輩に指導をいただき、『親子読書活動や子ども会活動、明日の親学級』など任せていただき、やりがいを感じ、そして大変勉強になりました。

1988年2月青年団活動での韓国訪問

そのころ地元の青年団にも誘われ、毎晩青年館に足を運び、どんな町にしたいのか、そのためには何をどうしたらいいのかなど、夜な夜な語る先輩の姿にだんだん引き込まれ、活動にのめりこんでいきました。年齢性別関係なく大勢で毎晩わいわい語りながら、『広報誌づくりや町の祭りや青年会議、ふるさと研修、人形劇活動』などに取り組みました。夜中に帰ることが続き、大変でしたけれども青年団だけでなく、婦人会や、商工会、青年団OB会など協力して町の祭りを開催するなど、町づくりに参画できたことは大きな宝物です。町内の老若男女と顔見知りになることができ、今でも婦人会OBの皆様から声をかけていただきます。

青年団で印象深いのは、ふるさと研修で国内では大分県湯布院町や大山町の視察研修、お隣の韓国研修で板門店や慶州など日本と韓国の歴史を知り、そのうえで相互理解を深め交流していくことの大切さを実感しました。町教委の協力なくしてなしえなかった研修ですが、2年続けて多くの青年が参加し、強い衝撃を受け、ものの見方、考え方に大きな影響が与えられたと思っています。

1989年(平成元年)には横田町職員として採用になり、町民課、総務課、2005年(平成17年)合併後の奥出雲町では、総合相談室、町民課、総務課、税務課など町民の皆様と関わることの多い戸籍などの窓口業務を中心に行いました。大学で神田道子先生の講義から学んだ事も「男女雇用機会均等法」や「男女共同企画推進」を通じて、役場の仕事でも生かすことができました。合計32年間公務員として微力ながらも自分なりに町づくりに携わり、昨年春に定年退職しました。

2022年4月奥出雲町庁舎

明日のワクワク・ドキドキを求めて

2022年(令和4年)4月からは、奥出雲町役場の再任用職員として、少しでも皆さんの役に立てればと、日々老眼鏡を片手にパソコンと戦っています。退職前年に久しぶりに東京の趣味のグループの集いに出かけ、コンサートや観劇などへの意欲は衰えを知らず、ラインを通じて情報交換することになりました。かつて女子寮にいたころは携帯もなく、連絡が取れず苦労していたのに、今は便利になったものです。

さて、最後にこの校友メッセージですが、文章を書くのは苦手だからご勘弁くださいとお断りしたものの、福島支部長の熱意にお断りできず、お引き受けしたおかげで、昔の写真など引っ張り出し、記憶が少しずつ甦ってきました。このような機会を与えていただきありがとうございました。また、最後までつたない文章をお読みいただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

石原啓子
1983年(昭和58年)文学部教育学科卒業
仁多郡奥出雲町
電話0854-52-2135

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