母校支援

振り返れば朝霞。邑南に繋がる4つの分岐点

東京と芸能の世界に憧れ、1985年(昭和60年)4月に東洋大学に入学。1年生の時は朝霞校舎に近い東武東上線の朝霞台周辺にアパートを借りていました。初めての一人暮らしでホームシックになりながら、夜は少し駅から離れた場所にある「養老乃滝」でアルバイトをしていました。

20歳の転機・ダンス学生

2年生の秋に中目黒に引っ越し、六本木でアルバイトを始めた頃にようやく都会の暮らしに慣れました。学生時代は、勉学よりもバイトやオーディションの日々でしたが、大学の講義内容で特に覚えているのはゼミです。ゼミの担当は中山教授だったと記憶していますが、個人研究では『マクドナルドのマーケティング戦略』について色々調べていたと思います。

『マクドナルド』は消費者が『マック』と呼びます。会社名や、商品名の呼び方にメッセージ性を持つことが大事という事を学びました。起業したり、SNSを使う中で何処か頭の片隅に残っていたゼミでした。学生時代の思い出は講義の記憶もですが、六本木の「ピックフォード・ライブホール」でのバイト生活や、オーディションの日々が強く残っています。

ライブホールでは物まねで有名な「ビィジ―フォー」が出演していました。今では懐かしい思い出となりましたが、この事が私の人生を大きく決定付けターニングポイントとなりました。生活の面でいうと、ライブホールでのアルバイト代が時間給900円位で、生活費は何とかこれで賄いました。学費は親からの仕送りでした。何とか好きな事をしながら暮らしていけました。これが貴重な体験のスタートです。

ダンス人生でしたから、在学中の同窓生との音信は現在ありませんが、数年前に六本木のライブハウス「ケントス」でサックスを吹いているアルバイトの仲間と会いました。頑張っているなと思いましたが、このメッセージを機会に同窓生やアルバイト仲間との交流ができれば良いかなと思っています。

東洋大学在学中

初めてテレビに出演したのは、1987年(昭和62年)、20歳の時だった思います。『天才たけしの元気が出るテレビ』でした。ものまね軍団として数人で出演し、マイケルジャクソンの物まねをする人として紹介されたと記憶しています。

同級生が就職活動をする中、「夢を大切にする気持ち」が強かったので就職活動もせず、焦りもありませんでした。当時はバブル最盛期でしたので、多くの会社から会社案内のパンフレットが届いていたのですが。あの時代に夢にチャレンジせずにいたら、結果はともかく、「あの時、チャレンジしておけばよかったと」と後悔しているかもしれません。本当に良かったです。

大学卒業後は就職せず、ダンスブームもあり、フジテレビの深夜のダンス番組「ダンスダンスダンス」に出演したり、豊島園でのダンスショーに出演したりしながらヒップホップダンスの道を進んでいました。CMや映画のオーデションの声掛けも有りましたが、実を結ぶ事はありませんでした。最近、東洋大学卒業の若いお笑い系のタレントさんがいますが、頼もしいことですね。

25歳の転機・呉服商社の営業

転機は1992年(平成4年)の25歳の時です。ダンスでの自分の限界を知り、職探しを始めます。アルバイトでは一度も面接で断られたことがなかったのですが、数社面接を受け、不採用が続き、現実の厳しさを実感しました。就職活動を始めて3カ月が過ぎた頃、知人の紹介で面接を受けた日本橋にある呉服商社に就職します。

入社した日がたまたまボーナス支給日でした。当然、自分は貰える筈もないのですが、入社祝いとして寸志を頂けたことに驚きました。入社後すぐの社員旅行でもハワイに連れて行って頂きました。バブル崩壊後とは言え、売り上げは伸びていた会社でした。

テレビやライブハウスでのダンスショーとは異なる呉服商社の営業の仕事は、未知との遭遇でしたが、お客様に誠実に対応する事とか、先輩や同僚などと協調して、何かを成し遂げることを学んだと思います。決して無駄な人生ではありませんでした。

余談になりますが、あの時代、会社のある日本橋から取引先の大塚まで、後楽園(現東京ドーム)を抜けて営業車を楽々運転していたものですが、地元に帰ってからは、所用で広島市内にいく際はバスを利用しています。公共交通機関を利用するという事も有りますが、年々、都市部での運転が苦手になってきたようです。運転年齢の転機ですかね。

28歳の転機・バリ島での暮らし

再び、人生を変える転機は1995年(平成7年)の28歳の時です。27歳の夏に訪れたバリ島を気に入り、28歳の時にバリに移住しました。雑貨の買い付けをしたり、カフェを開いたりし約8年間暮らしていました。

バリ島は旅行で行かれた方もあると思いますがダイナミックな自然に恵まれた人口は436万人位の島です。異国での興味は食事ですが、スパイス・ハーブ・ココナッツミルクを素材にしたインドネシア料理は豊潤な味わいです。バリ島は世界各国からの旅行者が訪れます。

8年間のバリ島暮らしの中で得た知見の一つは、観光スポット巡りだけではなく、そこで暮す人たちとの交流を求めている数多い観光客もいることをです。2019年(令和元年)に地元に帰って行なったインバウンド体験も、バリでの経験が生かされています。2004年(平成16年)の37歳の時に、将来の健康問題を考えて、邑南町にUターンしました。

Uターン後は、絵画のネットショップを開き、年に1回、買い付けでバリを訪れる日々でした。帰国した後も、町内よりも外の世界に興味を持ち続けていました。

バリでお世話になった方の家庭での一コマ

50歳の転機・スパイダーマンになった

再び訪れた転機は、インスタグラムを始めた50歳の時です。海外実修生と知り合い、町内のスーパーに買い物に行く車の中で聞こえてきたのは「beautiful」の連発。何気ない風景にとても感動していました。改めて地
元の魅力に気づき、2017年(平成29年)に世界を意識して、インスタグラムを始めました。初めてアップした写真は、町内で一番人気のある【赤馬滝】でした。

インスタグラムをきっかけに、町内の隅々まで、出かけ、今では邑南町で一番、滝に詳しくなりました。また、2018年(平成30年)の三江線廃線時には、三江線を盛り上げようと活動しました。その活動は、FNNドキュメンタリー大賞『宇都井の老人と蜘蛛男』として放送されました。この蜘蛛男=スパイダーマンに扮し、三江線を盛り上げようとするアクションは少し説明する必要があると思います。

邑智郡には、蜘蛛に守られたという伝説があります。雲井城という山城がある【天蔵滝(あまくらだき)】の上流には岩穴と、【蜘蛛渕(くもぶち)】があり人々の生活を守っていたとあります。邑南町には【蜘蛛居滝(くもいたき)】や、【雲渕-これは30米級の滝です』、市木地区、田所地区にも【蜘蛛渕-こちらは滝ではなく淵です】があり、いたるところ蜘蛛と滝です。三江線と、インパクトのある滝の写真を撮るために、蜘蛛=スパイダーマンの衣装で撮影を始めSNSで発信しました。

誰がどう考えても邑南町とスパーダマンでは世界的知名度が違います。インスタグラムに#スパイダーマンのタグをつける事で、世界のスパイダーマンファンに邑南町を知って頂くきっかけになればとの思いでした。それがテレビ番組になったりしました。

今思うと、周りを盛り上げることに喜びを覚えていたダンスの青春時代に繋がります。また、2019年(令和元年)にはインバウンド体験を開催し、カナダとスイスからの観光客を案内しました。その後も、アメリカ、オーストラリア、中国から予約や問い合わせを頂いていたのですが、コロナにより全てキャンセルとなりましたが、現在も、見通しが立たない中ですが、発信は止めていません。

石見川本駅前で

55歳の転機・地方議会を経験中

大きな転機は55歳の今です。発信を続けながら、町内の隅々まで出かける中で、さまざまな問題に気づき、町を変えたい、盛り上げたい、自分の経験を活かしたいと町議会議員を目指し、2021年(令和3年)4月邑南町議会議員選挙に挑戦し当選しました。私の議員当選で、何よりもうれしかった言葉は、人口1万人、高齢化比率45%の町ですが、「町内に新しい風が吹いた!」と言ってもらえた事です。

人生を振り返ると、線で繋がっています。東京に出ずに、東洋大学に入学しなかったなら、別の人生を歩んでいたと思います。邑南-朝霞-白山-六本木-日本橋-バリ-邑南で学び・体験したことを礎にこれからもポジティブに挑戦したいと思います。町議会議員となった今も、同じように町内の隅々まで出かけ地域の魅力を掘り起こし、発信し続け地域を元気にしたいと思います。永遠のスパイダーマンとして。

野田佳文
1989年(平成元年)経営学部経営学科卒業
邑智郡邑南町在住
メールアドレス yoshihanabi@yahoo.co.jp
Instagram @yomihanabi
Twitter @asianticjp

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