母校支援

一人旅から学び、安来に立つ

私は1976年(昭和51年)に東洋大学の工学部に入学したのですが、最初は関西方面の大学を目指していました。ある日、高校の担任の先生から「東洋大学の推薦枠が1人あるけどどうする?」と悪魔の囁きがあり、受験勉強から逃れたい一心で、つい「お願いします」と言ってしまいました。人生の最初の大きな選択だったと思います。

最初は、大学に近い鶴ヶ島に住んでいましたが、2年生の時には友人が住んでいた練馬区の保谷に引越し、池袋経由で1時間30分もかけて通学していました。さすがに疲れて、3年生のときには東武東上線の成増に再度引越しをしました。保谷、成増のどちらも大家さんが隣に住んでいて、当時は携帯電話もないので電話をするときは大家さんの家の電話を借りたり、病気で寝込んでいたら食事を作ってもらったりして、とても助かりました。

「アルバイトで学んだ優先順位」

冬にスキーに行くために色々なアルバイトをしました。富士急行のバス添乗員、農家のビニールハウスの組み立て、凸版印刷の工場など経験しましたが、今から思えば、添乗員が社会に出てから一番役に立ったと思います。

観光(貸切)バスと高速路線バスに添乗しましたが、お客様は遠足の幼稚園児から中高の修学旅行生の羽田空港までの送迎などがメインでした。学校名等の読み方をよく間違えたり、高速路線バスは今のように停留所を音声テープとか画面で表示するのではなく、添乗員が口頭でアナウンスするので読み方が分からない停留所もあり、恥ずかしい思いもしました。

また、道路が渋滞して到着が予定より遅れそうな時、色々な事情があるお客様の要望の優先順位をどう決めるのかずいぶん悩みました。トイレ休憩を優先し、早く終点の新宿駅に着きたいお客様には怒られましたが、新宿駅に着いて降車されるお客様から「ご苦労様」「大変だったね」等の言葉を賭けてもらった時はとても嬉しくて、今でも忘れられません。

「ラスト・カニ族の北海道旅行」

1979年(昭和54年)の大学4年生の夏休みには、バックパックを背負い、2週間の北海道への一人旅に出かけました。1960年代後半から1970年代末期にかけて「カニ族」と呼ばれる旅行スタイルがありました。縦長のリュックを背負い、長期の低予算旅行をする若者の風景です。多分、私は「カニ族」流行の最後の世代ではなかったかと思っています。

20日間有効な国鉄周遊券(特急には乗れません)を購入し、友人に見送られながら上野駅から列車に乗りました。満員で席に座ることも出来ず、夜は通路に新聞紙を敷いて一夜を過ごしました。青森県に入るころには乗客はほとんど入れ替わり、通学の高校生が多くなり、東北弁での会話を聞きながら北海道が近づいたことを感じました。

青森から青函連絡船に乗り、いよいよ北海道です。そもそも北海道を旅しようと思ったきっかけは、映画で「キタキツネ物語」を見て、本物を現地で見たいと思ったからです。一人旅で少し不安もありましたが、自由に動けることを考えると一人のほうが良いと思いました。

函館からは日本海側の鉄道路線を通って札幌まで行き、最初の3日間は北海道出身の同級生の実家に泊めてもらい、大通り公園、旧庁舎、北大のポプラ並木、時計台等の代表的な観光地を案内してもらいました。その後、旭川経由で宿泊費を節約するために夜行列車に乗り、稚内のノシャップ岬に向かいました。のどかな漁港があり、天気も良く、遠くに利尻島を望むことができました。稚内公園では北方記念館や「九人の乙女の碑」に行き、第二次世界大戦の悲劇を知りました。

広島、長崎、沖縄の場合もそうですが、実際に現地を訪問し、話を聞いたりすることによって、他人事ではないという考えに変わるような気がします。もう一つ気になったことは、北海道の同級生の友人達と会話をした時、私のことを「内地の人」と言われたことです。長い歴史の中で、どんな感情で言われだした言葉かわかりませんが、何となく違和感がありました。

大学時代

「自然を感じ、出会いを学ぶ」

稚内を後にし、再び夜行列車で道東に向かい、美幌から観光バスで屈斜路湖、摩周湖を観光し、阿寒国立公園の「オンネトー」で一人降車して「野中温泉ユースホステル」まで山道を歩きました。バスの運転手に最近、この辺りは熊が出たので気を付けるように言われ、怖い思いをした記憶があります。三日ぶりに風呂に入り、布団で寝ることができました。当時は学生が安く旅行をするためにはユースホステルをよく使っていましたが、今はどうなっているんでしょうか、それぞれに特徴があるというか個性的であり、有名な所は常連客でいっぱいでなかなか予約できませんでした。

翌日は網走に向かい、その周辺でキタキツネに出会えることを期待しながら移動しましたが、会えずじまい。仕方なく刑務所を見て、その夜は網走駅の男子トイレの軒先でシュラフに入り寝ました。当時は女子学生も同じような旅のスタイルの人もいて、いっしょにシュラフを並べて6~7人で寝ていました。貴重品もありましたが、何となく盗難に遇うという感じはしませんでした。のどかな時代でした。

翌日、野宿で知り合ったメンバーと記念写真を撮り、その内の一人と気が合い、次の目的地も同じだったので、一緒に知床半島に在る知床五胡に向かい、観光後は彼のテントで野宿をさせてもらい、私が夕食(ビスケットのみ)を提供して分けて食べました。友ができ、楽しい一夜でした。

次の日も二人で羅臼に向かい、岩尾別ユースホステルに泊まり、夕方には宿泊客全員でオホーツク海に沈む夕日を見に行きました。オレンジ色に染まり、とても綺麗だったことを覚えています。翌日は希望者でラウス岳登山をしました。途中で知床五胡が見え、頂上(1,661m)からは硫黄山やラウス湖、国後島が見え、360度の展望がすばらしかったです。

その後、野付半島に向かい尾岱沼から船に乗り、野付湾を周遊しました。打瀬船(エビ取船)や干潮時に現れるアザラシを見た後、トドワラにいきましたが、夏なのに丹頂鶴?が一羽おり慌てて写真を撮りました。

その後、根室駅まで行きましたが、ここで所持金をほとんど使い果たし、納沙布岬の観光を諦めて周遊券だけを頼りに一路友人の実家が在る札幌近くの北広島駅を目指しました。飲まず食わずで何とか到着して2日間お世話になりました。帰る際にはお金を貸していただき、本当に助かりました。そして成増のアパートには寄らず、直接故郷の島根県安来市に8月14日帰省しました。この旅が学生時代の一番心に残っている、楽しく貴重な体験だったと思っています。

私のような「カニ族」の終わりは、日本社会の転換を意味する時代でもありました。国鉄は分割民営化されJRとなり、青函連絡船も消えていきます。「カニ族」は「竹の子族」になり原宿に出始めます。

「ギンギラギンにさりげなく」と近藤真彦が歌い、「なんとなくクリスタル」と田中康夫が書き、ルービックキューブが世間を回します。土のにおいのする時代からあか抜けたコンクリートの時代に転換していく時代でもありました。

「企業人としての凡事徹底」

卒業後に広島ガスプロパン(株)で8年間インフラを学び、地元の安来市の広島ガスエナジー(株)に勤務しました。父が創業し今年で創立65年のLPガス製造販売の企業です。最近ではLPガス販売だけではなく、ミネラルウオーターの販売、高齢者宅など一般家庭のセキュリティーサービスも手掛けています。

また、会社の原点であるガス事業では、安来市内外の小学生を「ガス科学館(大阪ガスの施設)」を見学してもらい、ガスがクリーンなエネルギーである事を知ってもら活動を2003年から行っています。学生時代に学んだ、地域との共生、自然環境の保護、社会貢献を実践しながら「凡事徹底」を行っている毎日です。

まだまだ、コロナの時代は続くようですが、校友、現役学生の皆さんの健康をお祈りしています。共に克コロナで頑張りましょう。

蔵本章雅
1980年(昭和55年)工学部応用科学学科
安来市安来町在住

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