母校支援

東洋大学で培ったサンスクリット語の読解力

九州大学大学院で物理学を学んでいる頃から仏教に目覚め、物理学の専門書と併行して仏教書を読み漁っていた。社会人となっても仏教を学び続けていたが、独学の限界にぶつかった。そんな時、不思議なご縁で東京大学名誉教授の中村元博士と出会い、40歳過ぎて博士の開設された東方学院で仏教学、サンスクリット語を学ぶことになった。その後、中村先生から「博士号を取りなさい」と言われ、東洋大学の大学院で学ぶことを薦められた。

物(ブツ)理学から仏(ブッ)教学へ

もう20年程前になるが、社会人大学院生として東洋大学に入学した。面接で物理学から仏教学への転身について聞かれた。「私にとってのブツリのブツは〝物〟ではなく、〝仏〟と書きます」と答えたら、妙に受けたことを覚えている。

主任教授は、菅沼晃先生だった。その下でサンスクリット文法学を学んだ。テキストは、インドのサンスクリット学者の書いたもので、かなり高度なものだった。ゼミでの私の最初の発表は、puṇḍarīka(白蓮華)の特別な用法について述べられた箇所であった。それは、法華経のタイトルを理解するには欠かせない箇所だ。そこで学んだことが、法華経をサンスクリット語から現代語訳する際に大いに役立った。

若き知性と席を並べることは、錆びかかった頭脳によき刺激となった。山中湖の研修所でのゼミも懐かしい。私もいつしか青春時代に帰ったような思いになった。ただ、夏のクーラーの設定温度が20度にされていたのには閉口した。血気盛んな若者たちと違い、高齢者には寒くて鼻水をダラダラと流しながらの受講であった。

博士論文のテーマが「仏教におけるジェンダー平等の思想」ということだったので、提出先をお茶の水女子大学にした。人文科学では同大学で男性初の博士という栄誉を給わった。それは、岩波書店から『仏教のなかの男女観』として出版されたが、予約者が多く発売日前日に増刷が決まり、5刷まで版を重ねた。現在は『差別の超克――原始仏教と法華経の人間観』と改題して講談社学術文庫に収められている。

自分で納得のいく『法華経』『維摩教』の現代語訳を出版

論文には、サンスクリット原典のあるものは全部、自分で現代語訳して引用した。法華経を自分で翻訳して岩波文庫と突き合わせてみると、違いが大きかった。

「転輪王たちは、幾千万億の国土をひきつれて来ており」(岩波文庫『法華経』上巻、81頁)という訳にはわが目を疑った。どうやって〝国土〟をひきつれて来るのだろう? サンスクリット原文を見ると、「幾千万億の国土からやって来た」であった。

初めは、訳の違いを私の非力の故かと思っていたが、文法書、シンタックス(構文論)の本などを調べれば調べるほど、私の訳が正しいとしか思えなくなった。最終的に岩本裕氏による岩波文庫の現代語訳の致命的な訳を489カ所指摘することになった。

筑波大学名誉教授の三枝充悳先生に相談すると、「自分で納得のいく訳を出しなさい」と励まされた。そして、八年がかりで『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下巻(岩波書店)を出版した。それが毎日出版文化賞に選ばれた。中村先生が、『佛教語大辞典』で受賞されたのと同じ賞だった。

毎日出版文化賞の授賞式でスピーチする筆者

博士論文執筆の時点では、もはや存在しないと言われていた維摩経の写本が、論文提出後にチベットで発見された。写本の写真版を入手し、法華経に続き、現代語訳して『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(岩波書店)を出版した。

それが王子製紙の財団が主催するパピルス賞に選ばれた。大学などのアカデミズムの外にあって、達成された学術的業績に対して贈られる賞と聞き、偏狭なアカデミズムを批判されていた中村先生が最も喜んで下さる賞だと嬉しかった。

東北大学と東京大学の名誉教授で、学士院会員の樋口陽一先生が、選考経過を報告された。樋口先生自身が、英語、仏語、独語だけでなく、サンスクリット語に最も近いラテン語等の語学に堪能で、比較憲法学の第一人者であり、その視点から「対照訳は、その場で対照されるのだから、訳者にとって全く妥協が許されない大変な仕事である」「詳細な訳注は、玄奘三蔵などの訳との比較もなされていて、とてつもない奥行きのあるものになっている」「選考委員の想像もつかないほどの仏教学や、インド思想史、東洋学、比較文明論等々にわたる膨大な射程を持っている」「サンスクリット語という一般の学者にとっても至難な対象についてのこれだけ大きな仕事は、日本の学会、研究者にとっても、より広い知を求める読者にとっても大変なプレゼントである」「この賞の理念に百五十パーセントも、二百パーセントも的中するものだ」と、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』と併せて評価してくださった。

両書をご覧になった橋爪大三郎先生から、東京工業大学の世界文明センターでの大学院の授業で法華経講義を依頼された。それを基に、『思想としての法華経』(岩波書店)を出版した。それをNHK-Eテレ「100分de名著」のプロデューサーがご覧になって、その番組での法華経の解説を私に依頼してこられた。それは、2018年4月に放送され、好評であったことから2019年11月に再放送された。

NHK-Eテレ「100分de名著 法華経」の収録を終えて
(右から直木賞作家・安部龍太郎、筆者、島津有理子、伊集院光の各氏)

こうした反響の中で、「『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下巻と、『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』は、梵・漢・和が対照されていて、大変に便利だが、重厚すぎて持ち歩けない。ぜひ、文庫本にしてもらいたい」という声がたくさん寄せられた。それに応えて、両書の現代語訳の部分のみを取り出して角川ソフィア文庫に収めた。現在、法華経が14版、維摩経が6版を数えている。

恩師の〝遺言〟である〝翻訳作業ノート〟の出版をようやく実現

 このような反響の中で、三枝先生からの〝遺言〟が脳裏をかすめ始めた。これらの仏典は、サンスクリット語のすべての単語や構文の文法的な意味をすべて明らかにした上で翻訳した。文法的に重要なところは、参考文献として菅沼先生の『新・サンスクリットの基礎』上下巻の関連する頁数を明記してある。

その記録を自分で〝翻訳作業ノート〟と呼んでいた。それをご覧になった三枝先生が、「ここまで、すべての単語の意味を明らかにして翻訳しているから、曖昧さがない」「出版社は、このサンスクリット原文と、漢訳の書き下しと、植木さんの現代語訳を対照させた本として出版するでしょう。だが、この文法的な分析の部分(私の〝翻訳作業ノート〟)を出版するのは、膨大になるということで出版社は嫌がるだろう。でも、これは貴重な資料です。将来、必ず出版するように」と言われた。その三枝先生は2010年に亡くなられ、それが〝遺言〟となっていた。

三枝先生の言われた通り、法華経と維摩経は梵・漢・和対照の形式で岩波書店から出版された。〝翻訳作業ノート〟のほうは、「出版社が嫌がるだろう」という言葉が耳に残り、しばらく様子を見ることにしていた。ところがNHKに出演したことをきっかけに、三枝先生の〝遺言〟を実現しなければ……と思うようになった。

でも、出版社が・・・という言葉で二の足を踏んでいた。たとえ出版社がいい顔をしなくても、出版助成があれば前向きになるのではと思い、東洋大学の出版助成を申請した。が、その書の意義を理解されなかったのであろう。助成を受けることはできなかった。失意の中、2018年9月1日と2日に東洋大学で日本印度学仏教学会の学術大会が開催された。仏教書の展示即売コーナーで、手にした本をパラパラとめくっていると、右側から一人の男性が近づいてくる気配を感じた。

「法蔵館の者です。植木先生ですよね。『100分de名著 法華経』を観ました。植木先生の訳された法華経も読んでいるところです。うちから、本を出してもらえませんか?」と声をかけられた。そこで、〝翻訳作業ノート〟のことがピンと頭に浮かんだ。その概略を説明すると、その方の目の色が変わった。興味を示しておられることがよく分かった。学会が終わった翌朝、京都の法蔵館から、メールが届いた。

「〝翻訳作業ノート〟をうちから出させてください。箱入りにします。布張りの豪華本にします」とあった。これまでの苦労が一転、大変な扱いになった。こうして、『梵文「法華経」翻訳語彙典』上下巻、『梵文「維摩経」翻訳語彙典』の3冊として出版された。

1冊で1300~1400頁の本に仕上がった。法華経、維摩経を通してサンスクリット語を学ぶのに便利な本だと評されているようだ。

このほか、法政大学国際日本学研究所で発表したことを基にまとめた『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』(中公新書)は、北海道医療大学の国語の長文読解の問題に採用された。桑原武雄学術賞に梅原猛、鶴見俊輔の両氏が推して下さったそうだが残念ながら次点であった。

それが、今月さらに重版(11版)となり累計44000部の発行になったという。

日蓮生誕800年の今、日蓮を語る

本年(2022年)は、日蓮生誕800年に当たる。その佳節に合わせて、角川ソフィア文庫編集部から『日蓮の手紙』と題する本の執筆を依頼された。集中的に日蓮の手紙を読破してみて、国家主義的だとか、攻撃的だとか言われていたのとは異なり、極めて人間性あふれる〝人間・日蓮〟の実像が見えてきた。その思いを基に、『日蓮の手紙』(角川ソフィア文庫)の原稿を仕上げ、出版後1年経つ頃には6刷に至る反響ぶりである。

その書を読まれた先のNHKのプロデューサーから「100分de名著」で「日蓮の手紙」を取り上げたいと連絡があった。番組制作の前に関係スタッフにレクチャーすると、「日蓮は女性の味方だったんですね」「頭がいい人ですね」「あったかい人ですね」「正義感あふれる人だったんですね」などといった感想が寄せられた。

そんなスタッフの思いが込もった番組に仕上がった。その反響の故か、テキストが、放送からわずか四カ月で5刷になったと聞いた。その番組をご覧になったニッポンドットコム(元NHKワシントン支局長・手嶋龍一代表)から「日蓮生誕800年に寄せて」と題して原稿依頼を受けた。そのテーマで、サブタイトルを「21世紀に注目される仏教」として原稿をまとめた。

ロシアのウクライナ侵攻を念頭に置いたものである。現在、日本語の拙論とそのスペイン語訳が公開されているが、順次、世界の7カ国語に翻訳されて海外発信されるという。その文章は、下記のサイトで閲覧可能となっている。

Nippon.com
「日蓮生誕800年に思う:21世紀に注目される仏教」
https://www.nippon.com/ja/authordata/ueki-masatoshi/

2001年博士前期課程修了
東洋大学大学院文学研究科仏教学専攻
植木雅俊
仏教思想研究家

1951年 長崎県島原市生まれ。島原高校卒。九州大学卒。同大大学院修了。
2002年 東洋大学大学院博士後期課程中退。お茶の水女子大学で博士号取得。NHK文化センター講師。

【著書】

『仏教学者 中村元』(角川選書)
『人間主義者、ブッダに学ぶ』(学芸みらい社)
『ほんとうの法華経』(共著、ちくま新書)
『今を生きるための仏教100話』(平凡社新書)
Gender Equality in Buddhism, Peter Lang Publ. Inc.

小説に『サーカスの少女』(コボル) など多数。

対談動画

2022年8月16日 YouTube公開
池田香代子の世界を変える100人の働き人68人目
原始仏教・大乗仏教の溌刺とした女性たち
https://youtu.be/FVm3GLNZo_U

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