母校支援

「あの頃の生き方を、私は忘れない」

2022年5月「東洋大美研LINE」グループ作ろう

今年の5月の連休中、突然、大学の美術研究部の1年後輩からLINEが入った。「東洋大美研のLINEグループを作りました。入ってもらえますか?」とのこと。入ってみると私の学年から3人、1つ下の学年から8人、合計11人のLINEグループが出来ていた。いわゆる同窓会LINEグループともいえるだろう。

たまに、ちょっとした世間話に花が咲いたりしていたが、ある日「古い写真が見つかったので送ります。」のメッセージと共に部室があった今にも倒れそうな旧?7号館の写真が送られて来た。

説明がなければ、まるで爆弾が撃ち込まれたみたいな惨状(この表現が全く大げさではない状態!!)「天井も床も崩れ落ちてる、まるで廃墟だね!よくも怪我しなかったよね!」とのコメントが飛び交っていた。

その後に現在の白山のおしゃれな校舎や噴水、コロナ前の白山祭の写真が送られて来て、「まるでミッション系の大学みたい!」「東洋大学なのに学生は男女とも、服がおしゃれなのです(原文のまま!)」と失礼な話。

その前後では当時や現在のメンバーの写真が送られて来たけれど、正直言って現在の写真には名前を付けてもらわないと誰が誰だかわかりません!(笑)

故郷の中学校や高校の同窓会をしても同じようにこの「東洋大美研LINE」で会話をすると、40年の時間がすぐに戻り、あの頃の仲間の会話になってしまう。

みんなで行った志賀高原のスキー合宿の時の飲み会での写真【添付写真②】、美術展や一晩かけて歩いた山手線一周、野球部優勝パレードや私たちより上の先輩方の話などで盛り上がる。

振り返れば大学時代、楽しかった想い出ばかり(多分に想い出バイアスがかかっているが)。親に秘密でバイトで資金を作り、自力で2年生の夏休みに行ったアメリカ短期留学。本当だったら在学中に1年間留学する計画を親戚の反対で断念したことでの短期留学ではあったが。

また夏休み、冬休みは、大学の宿泊施設があった「長野県白馬村」に出かけ、スキーをしたり、旅館でバイトしたり・・・。音楽と編集の仕事に興味があったので、縁あって「ギターマガジン」でバイトしたり、コンサートに行きまくったり・・・!楽しく、忙しく過ごしていた。

大学の授業では英語のスキルを身につけたくて、英会話やディクテーションなど、主に実技(?)を磨く花咲教授やジェフリー先生の授業は特に熱心に勉強していたものだ。部活は美術研究部だったが、クラスの友人たちと「テニスサークル」を作って参加したり、ジャズバンドサークルの「グルービーサウンズ」のコンサートにも度々通い、メンバーの中のセミプロの演奏を聴きにライブハウスにも出かけたりしていた。本当に楽しい学生生活だったと思う。

モデルエージェンシーで世界を歩く

1980年(昭和55年)に卒業。外国人ファッションモデル専門(当時)の「モデルエージェンシー・フライディ」でマネージャーとして働き、身についていた英語が役に立った。モデルとの会話は英語。国際電話で外国モデルエージェンシーとの交渉があったり、年に1、2回は米国、欧州を中心に世界中を一人で契約モデルを探すオーディションに飛び回ったりしていた。

考えてみれば、22~27歳の若い女の子が、ニューヨーク、パリ、ミラノのビッグエージェンシーで一人でオーディションしている姿なんて、どう考えても「危なっかしい!」。

実際、本当に危ない場面もあった。・・・白タクにわからず乗ってしまったり、日本人カメラマンとの待ち合わせ場所が「ヤバイ」お店だったので、それを教えてくれたタクシーの女性ドライバーに助言をもらい助けてもらったり、ミラノやパリのホテルが旅行代理店からの予約が取れていなく、ホテルのフロントと大喧嘩の末、地下室に泊まったり。パリではジプシーに狙われている事に気づき、既の所で大きなブックショップに逃げ込んで事なきを得たり・・・。

親には心配をかけるので言っていないような事が何回かあったな~(!笑!)。その度にどうにか切り抜けて来たのも自分の感性と周りの人々(友人含め)に助けられて来たんだなと思う。

そうだ!故郷「うち」に帰ろう!

ずっと東京で暮らすつもりでいたけれど、急に地元が恋しくなり・・・

『東京じゃ大好きな犬と暮らすことも、ガーデニングもできないな』とか、『東京で子育ては私には無理かも』とか『何年たっても日本人は英語が話せない!少しでも英語学習のお手伝いをして、英語が苦手な日本人をなくしたい!』などと思い、東京生活を切り上げて、故郷に帰ることにした。

帰省の前には約2か月、アメリカ、オーストラリアを一人旅して(最後のアガキ!)これもまたとっても楽しい経験になりました。

1985年(昭和60年)に島根に帰ってからは、まず、犬を飼い、小中学生対象の英語塾を自宅で始めました。犬はシェルティで、父をアメリカンチャンピオンにもつ、名前は『タロウ』。素晴らしい名犬で頭がいい、性格も温厚、カッコイイ!自慢の愛犬でどこに行くにも一緒だった。

そして、英語塾の名前は『タロウ塾』たくさんの子供たちが通ってくれた。英語が苦手な生徒が、だんだんわかるようになって、得意科目になったりするととても遣り甲斐を感じたものだ。

天安門広場で安来節

地域活動にも積極的に参加し、国際交流にかかわり、「青年の翼」でまだ発展途上だった中国に派遣されたり、今までとは違った分野で見分を深める事ができた。外国を訪れて思うのは、いかに自分が日本を故郷の事を知らずに生きて来たかという事。

中国に行く前に「日本」「島根」について勉強し、「安来節」「銭太鼓」を練習した事は、自分の中の「故郷」を見つめ直すきっかけともなった。「安来節」をあの天安門広場で披露し、大勢の人々を集め、当然、中国の警察官に取り締まられたが、最後には警官達も笑顔で「安来節」をエンジョイしていたのは奇跡的な想い出!(笑)。

ミニバスの女性コーチになった

結婚して子供が生まれてからは、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学までもPTAの役員を引き受け、学校活動や地域活動に参加し活動や研修会などを通して、色々と勉強させてもらった。

その中でも、次男、三男が小学校のころ、男子ミニバスの指導者がおらず、「毎日見ているだけなら・・」と軽く引き受けた役員からコーチになり、県公認の審判員になった。次男の時、弱小ミニバスチームが安来地区代表で県大会に出場でき、三男の時には新人戦で県三位、鳥取の大会でも三位、山口の大会に招かれて出場するなど『強い!』と言われるチームになった。

勿論、他の保護者や色々な方にご協力、ご指導いただいた賜物!女性のコーチが一人で指導しているという事で他のチームの監督さん達にも色々アドバイスいただいた。これまた危なっかしそうに見えたのだと思う(笑)。

実際、その頃はほぼ24時間バスケ指導の事を考えていた。試合のビデオを見て、スタッツを付けて研究したり、子供たちに試合の感想文を書いてもらったり、NBAや高校バスケの放送を録画して見たり。スサノオマジックの始まりにもボランティアとして、ほぼ全部のホームゲームに参加したり・・。そんなバスケに熱中したのもいい思い出だ。

地域活動に育てられる

2008年(平成20年)からは「安来市荒島交流センター」に勤務している。

「交流センター」とは、いわゆる「公民館」をイメージしてもらうと良いが、「公民館」より活動が多岐にわたり、様々な活動がしやすくなっている(その分多くの活動にかかわるので忙しい、かな?)。多世代にわたる地域の方々と活動し、地域を盛り上げる、元気にする活動など、小さな子供達や高齢者とかかわり、様々な団体に加わりお世話をしている。

こう書くと「めんどくさそう!」と思われるかもしれないけれど、色々な活動を企画し、話し合い、実行するのはとても遣り甲斐がある仕事だと思う。地域の人と活動し、頼られたり、教えられたり・・子供から高齢者の人々迄に顔を覚えてもらっているし、声をかけてもらえる。

毎日、笑顔の絶えない生活、いい仕事をしている!と思う。もちろん時には困難な壁にぶつかったりして悩むこともあるが、そんな時は誰かが助けてくれる。仲間がいる!それもた~くさん!!

楽しい事しか見えない!【人・もの・こと】に囲まれて

ああ、『私はこんなことがやりたくて東京を離れたんだな』と時々思う。

顔のわかる人々との生活。大好きな【人・もの・こと】に囲まれた生活を送っている。

こんな毎日を過ごせるのも大学生の時、またその後の東京生活でいろんな事にアンテナを張り巡らして、いろいろ感じ、様々な経験をして、自分自身の感性が磨かれた・・それが現在の私の礎となっているからだと思う。そう!あの頃の自分に感謝したい!『いろいろ頑張ったね!ありがとう!』と・・。

さあ、そろそろ人生の第2ステージを迎える時が見えてきた。これまでの経験を活かし、また自由に楽しく、仲間とともに過ごして行こう!!

(ワンコの『あんず』と共に!あ、夫も一緒にね!)

1980年(昭和55年)
文学部英米文学科卒業
古志野 郁美
安来市在住

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