母校支援

学びの途中にて

まだ過去を振り返る歳ではないと思っています。とはいえ先日50歳となり、人生100年時代の半分を終えました。今回お話しをいただいたのを機に、自らの半世紀を振り返りました。

障がいのある子ども達と共に

現在、島根県立石見養護学校で5年目を迎えました。1995年(平成7年)3月に東洋大学を卒業してから中学校で教職生活をスタートしました。その後、縁あって、特別支援教育の道に進みました。その特別支援教育のスタートは、地元邑南町。現在の勤務校である島根県立石見養護学校です。言葉での意思表示が難しい生徒を担当しました。その子が伝えようとしていたことを理解できず、お互いに歯がゆい思いをしていました。

ある日、その生徒たちと春の良い天気に邑南町にある香木の森公園へ出かけました。担当していた生徒がバスを降りて突然走り出しました。すぐにその子を追いかけ止めました。しかし、その子はトイレに行きたかっただけでした。涙ぐむ生徒の姿を見て、自分の力量のなさを恥じました。その時から本当の勉強が始まりました。

大学でもっと勉強していれば、目の前の子ども達の力を伸ばせて上げられたでしょう。後悔しても仕方ありません。自閉症教育を中心に行ける範囲の研修会はすべて参加しました。
出会う子ども達は十人十色。障がいも特性も必要な支援も違います。毎年新たな学びに満ちていました。組織はリーダーに規定されると言いますが、教室も同じです。教師の力量が子ども達の成長を規定します。子ども達の前に立つ以上、私の学びは続いています。

大学の学びは『多様性』

話を大学時代に戻します。
1991年(平成3年)4月、東京で降りた最初の駅が渋谷。しかも改札を出た場所がハチ公前でした。その日は土曜日、時間は夕方。ものすごい人でした。人があふれていました。そこから叔父宅まで地下鉄で移動。乗った地下鉄はぎゅうぎゅうの満員。その時は、まさかその満員電車で4年もの間、バイト先に通うことになろうとは思いもしませんでした。

昼はバイト、夜は学校の日々

18時から始まる授業に駆け込み、21時過ぎまで授業。その後サークル。帰宅してすぐに銭湯へ。大学近くのアパートは6畳一間、トイレ共同、風呂なし。このアパートに終電をなくした友人達がよく集まりました。トラック運転手や印刷屋、ファミレスの料理人、フリーターなどなどさまざまな業種の人が集まりました。

中学を中退し、夜間高校から東洋大学へ入学した年齢はかなり先輩の同級生がいました。朝までゲームをして過ごしたこともありました。ボウリングを教えてくれた先輩もいました。24時間営業のボウリング場に連れられ、朝まで指導していただいたこともあります。とにかく個性豊かな方々に出会いました。

白山再開発

私が入学してから白山再開発がスタートしました。解体用のネットが張られ、工事車両も増えました。年々使用する教室が制限され、利用できる範囲も狭くなりました。学園祭も縮小。

最後の年は白山の学園祭は開かれませんでした。大学4年の白山校舎がどのような姿だったのか、ほとんど記憶にありません。卒業する年に新しい校舎が使用できるようになったように思います。しかし思い出すことも難しいのです。徐々に東洋大学の記憶を消されていくようでした。

箱根駅伝

大学を卒業して島根に戻ると、東洋大学の記憶もどんどん消えていきました。しかし、その記憶を呼び覚ましてくれたのが箱根駅伝でした。東洋大学が活躍し始めたときに、家族が急に騒ぎ出したのです。否応なく、東洋大学出身であることを再認識させられました。箱根駅伝恐るべし。

教職と指揮者。学びは恩師との出会いから

私は幸せなことに恩師に恵まれています。教職1年目には教科指導のスペシャリスト吉川悦子先生。経験豊富で周囲からの信頼も厚い先生でした。5年目には、高校の恩師でもあり、障がいのある子供たちを教える為に、私に特別支援教育の道を示してくださった赤木浩司先生。今でもこのお二人の存在が教職として生活の支えであることは言うまでもありません。

その後の恩師の1人に、日本指揮者協会の会員であった村方千之先生がいます。東洋大学吹奏楽部を指導されていたこともある指揮者でした。私は中学・高校は瑞穂中学・川本高校と吹奏楽部で音楽をかじっていました。その経験で27歳の時、オーケストラ、吹奏楽、室内楽の指揮者に興味を持ちました。思い立って指揮法を教えてくれる場所を探したところ、1か所だけありました。それが「村方指揮法教室」です。

東京都豊島区東長崎。大学時代に知っていれば、通えるところでした。社会人になって東京に通うことになろうとは思ってもみませんでした。1999年(平成11年)、27歳から9年間、最初の5年間は月2回のペースでその地に赴き、レッスンを受けました。そのレッスンではピアニストの前で課題曲を指揮します。その指揮の仕方について指導をうけていました。

その恩師が村方千之先生です。
村方先生は齋藤秀雄氏に師事し、齋藤メソッドを体現できる数少ない先生でした。斎藤メソッドとは、「斎藤指揮法教程」という本にまとめられています。この指揮法教程に基づき具体的な指揮棒の持ち方から指揮の技法、課題曲の振り方を指揮法教室で学んでいました。

齋藤秀雄氏をご存じない方もいらっしゃると思います。齋藤氏は、戦後の音楽教育を牽引した方で、世界的な指揮者や音楽家を育てた方です。小澤征爾氏の恩師と言えばわかるかもしれません。その齋藤秀雄氏が小澤征爾氏を指導する前から門下生として活躍していらっしゃった村方先生に出会い、レッスンに通うことになりました。

毎回課題曲をいただき、通勤中の車の中やレッスンに通う電車の中が練習場所でした。ひたすら「叩き」と呼ばれる振り方を反復練習したり、窓に映る腕の動きを見て修正したりしながら練習していました。
お金のない私は、飛行機の早割チケットを購入し、早朝の便で行き、最終で帰る日帰りでした。羽田空港はいつも走りっぱなし。悪天候のため、欠航した日もありました。

当時は何の役にも立たない習い事でしたが、現在は少し役に立っています。地元瑞穂中学校の吹奏楽部を指導に行く機会ができたことで、音楽を指揮で表現する場をいただきました。現在は、顧問の先生に呼ばれたら、平日は30分程度、休日が合えば半日程度の指導をしています。

先月は、地元のイベント「邑南町ふるさと祭inアベル」や、「瑞穂中学校定期演奏会」にも参加する機会を得ました。学んだことを活かす場があることは幸せです。後輩である地元中学生達にも音楽の楽しさだけでなく、学ぶことの大切さも伝えています。

興味を持ったことを続けていくことは人生を豊かにするはずです。中学生であれ、特別支援学校の生徒たちであれ、学校生活の何倍もある社会生活を楽しく、豊かに過ごして欲しいと願っています。

障がいのある子ども達が活躍する場所を

特別支援学校に在籍する子ども達は、高等部を卒業するとすぐ社会人になる子達が多いです。何らかの理由で離職する子が多いのも事実です。自立した生活を送るために必要な経済的基盤が確立されなくては、その子も家族も安定した生活は望めません。働きたくても働く場所がない子は、少なからずいます。

就労先が少ない山間部では特に顕著です。就労支援B型事業所は、月平均約2万円。A型事業所でも月平均約9万5千円です。自立するには物足りない金額です。これらの状況を仕方ないで済まさずに、何とかしたいと思っています。

働く場を作り、活躍できる場を提供し、地域で生活する。自立した一人の社会人として、堂々と生きていける子達を増やしたい。それが私のこれからのミッションです。
障がい者就労に関心を持ち、取り組みたいと思っていらっしゃる方は是非連絡をください。

今後,障がい者就労支援施設をつくります。その際に、支援頂ければ幸いです。具体的な話が決まりましたら、皆様にお話しできる機会を是非お与えください。県立石見養護学校の愛唱歌「出会い そして 未来へ」に以下の詞があります。

さくらのつぼみを、あたためて

あなたをずっと 待ちわびていました

抱きしめていた 家族の花が

今ここに 咲きました

私たちの未来は これから始まる

かなうはずの未来へ 向かって飛びだそう

(作詞・月橋 剛 作曲・新田敏弘)

※この愛唱歌は10年以上前、卒業生の保護者であったお二人が、作詞、作曲してくださいました。現在も新入生を迎える歌として、毎年歌い継がれています。

人生の熟成期はこれから

小澤征爾氏を指揮者として育てた齋藤秀雄氏は次のように言っていたそうです。

「指揮者は50歳から」

積み上げてきた学びや経験が熟成し、実を結ぶのは50歳からであるというのでしょう。私の人生の熟成期もまさにこれからだと思っています。

1995年(平成7年)文学部教育学科卒業
石川圭史
島根県邑智郡邑南町在住
メールアドレス:Ishikawa.keishi@toss2.com

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