母校支援

宍道湖発。渡り鳥、滑空の軌跡

ワンダーフォーゲル学部に入学

みなさんワンダーフォーゲルをご存知でしょうか。ドイツ語で「wander(放浪する)・vogel(鳥)」と言い、日本語では「渡り鳥」が語源で荷物を担ぎ山から山へと渡り歩く活動です。「山岳部とどこが違う」と良く聞かれますが、多少違います。私は1961年(昭和36年)創部の東洋大学体育会ワンダーフォーゲル部に所属していました。学部は?と問われたらワンダーフォーゲル学部と言っていいかもしれません。

私の入学は1977年(昭和52年)朝霞新校舎ができた年でした。新しい校舎に期待していましたが、あまりにも殺風景な風景にガッカリしたものでした。それでもクラブ活動の新人勧誘はテレビで見たような生き生きとした光景が有りました。

そして、たまたまワンダフォーゲル部の女子部員の方に誘われ、新入生歓迎合宿に行く事になりました。中学時代はバスケット部、高校時代は受験少々と帰宅部でしたのでワンダーフォーゲルは知りもしませんでした。

まずは、東京へ行きたいという思いが東洋大学を選び、大学生らしい部活動と暮らしがしたいとの思いがワンゲル部だったと思います。授業へのこれといった思い出は失念しましたが、経済学部であるにもかかわらず、日本史が好きでしたので史学科に興味を持っていました。史学科は東洋大学でも特徴あるアカデミックな学科だったんでしょうか。

東京での学生生活に憧れていましたから、定番は下宿です。東上線沿線が東洋大生の定宿ですから、下赤塚に住まいしました。1~2年時は3畳一間、3~4年時は4畳半一間のバス・トイレ無しでした。当時地方から出ると、大体このようなライフスタイルでした。

アルバイトは中華料理屋さんで4年間続け、鍋振るまでにスキルアップしましたが、バイト代は合宿と山行き装備品に全て使いきりました。

ファイト、ソーレ、ソーレ、ファイト!

さて、ワンダーフォーゲル部の話です。部所有の山小屋に泊まり、散策やキャンプファイヤーと、楽しい部活動と聞きワンゲル入部を決めました。しかし入部したとたん、今度は新人養成合宿に向けてのトレーニングが始まりました。

合宿に行くパーティーごとに、おもに白山キャンパスからランニングで上野公園まで行き、不忍池を周回。それも大きな声で「ファイト、ソーレ、ソーレ、ファイト」と観光客の中を走り続けます。観光客の皆さんはビックリですよね。

南アルプス鳳凰三山2840mの縦走が新人養成合宿です。初めて登山は、20kg以上のザックを背負って山頂を目指します。どれだけ大変だったかは、初めて見る山々の素晴らしい景色、富士山も見えたはずですが、帰ることばかり考えていたことからわかります。

そして退部を!と思いました。無事下山し、新宿で打ち上げがあり、先輩から「よく頑張った、期待しているよ」と言われたような、言われなかったような、そんな事があり4年間続ける事になりました。あの先輩の言葉が無かったなら、続けていたかどうか。良き先輩と、言葉に恵まれました。

新人養成合宿を終え、ちょっと成長したのか、より厳しい夏合宿をこなし、ちょっと楽だった尾瀬の秋合宿、山小屋でスキーをした冬合宿、そして3月とは言え数メートルの積雪のなか、「八甲田山雪中行軍」のような、北八ヶ岳のハードな春合宿で一年生を終えました。

哲学する渡り鳥になる

2年生、3年生と進級するごとに、山との関わりが深くなって行きました。2年生に成ると後輩への指導が加わり、なおかつ合宿の目的、つまり何の為に山に行くのかと討論が始まりました。みんなが本気で部室で、喫茶店で、居酒屋で遅くまで語り合いました。熱い青春でした。熱く語りあった答えは、活動方針として次の様に残されました。

【四季の自然に飛び込み、自己鍛錬と、協調を図り、より広範な活動を目指す】

2年生に成ると積極的に山に行くようになりました。合宿とは別に数人のパーティーでの登山です。当然楽な事ばかり有りません。荷物を背負って自分の足で歩きます。雨も降れば、風も吹き、雪になることもあります。

時には危険と隣り合わせの状態で何日も狭いテントで寝食を共にする、お互いの協力がないと安全な登山、山を楽しむ事は出来ません。そこから、お互いの信頼感、思いやりが生まれました。一番の思い出に残る合宿は2年生の夏合宿、北海道富良野岳から大雪山旭岳への約10日間の縦走かもしれません。

当時の東洋大学ワンダーフォーゲル部には、「山日記」がありました。その中に次のような一節が有ります。1967年の先輩の「山日記」です。私にとって印象深い一節ですので紹介します。

【生きるとは何か と苦しみながら 友と山に行く 汗と泥にまみれて山に伏し 夜空を焦がして 燃えるファイヤーを囲み 共に肩を組んで歌い感激し どうしようもない青春をもてあまし いらだち涙する】
直答のなき人生を、急がず、休まず歩み続ける

1981年(昭和56年)、何とか4年で経済学部を卒業、と言うよりワンダーフォーゲル学部を卒業しました。長男でしたので地元島根県松江市に帰り、地元企業に就職しました。

建具・ドアの金物、襖・障子の材料の卸会社で営業・管理し、来年2023年(令和5年)に定年を迎えます。何の取り柄もない私がコツコツと42年間も続けてこれたのはワンダーフォーゲル部の山行きでの「急がず、休まず」のおかげかもしれません。

当時のワンダーフォーゲル部の山田洋監督は記していました。「答を直ぐに求めてはならない。人生の中の答えは何年も経て出る事が多いから。人生に於いての直答は唯一、とにかく精一杯生きる事」だと。今年2022年は数年ぶりにワンダーフォーゲル部のOB有志が集まる青春プレイバック山行パートⅡが有りました。

9月に韮崎市にある南アルプス鳳凰三山登山口にある青木鉱泉に12人が集まりました。私の同期が幹事をしてくれています。みんなで夕食を作り、飲みながら、食べながら遅くまで語り合いました。何気ない事ですが、みんなに会えることが本当に嬉しいです。島根からは少し遠いけど来年も楽しみにしてます。

妻と目指す、富士登山

思い起こせば30才で結婚。初デートは鳥取県の大山のハイキング、その後も夫婦で山歩きを楽しんでいます。日本で2番目に高い南アルプス北岳、3番目に高い北アルプス奥穂高岳を2人で登頂しました。次の目標は、1番高い富士山です。

2人の登山で思い出深いのは結婚10周年で行った北海道大雪山旭岳です。山頂に2人で立ち、私が二十歳の時の、夏合宿で歩いた富良野岳、十勝岳、トムラウシを遥か遠く見渡すことが出来た事です。「あの遥か向こうからここまで歩いた青春」を、妻にさりげなく自慢しました。これからも2人で付かず離れず?の登山が出来たらいいかもしれません。

12月4日は「国宝松江城マラソン大会」のフルマラソンに挑戦します。準備不足ですが沿道の皆さんの応援を糧に完走目指して頑張ります。

佐藤 秀紀
1981年(昭和56年)経済学部経済学科卒業
松江市宍道町在住
メールアドレス wnndn880@dream.bbexcite.jp

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