母校支援

学ぶことは、誠実を胸に刻むことである(ルイ・アラゴン)

懐かしき昭和の下宿

卒業してから45年の歳月が過ぎ、当時の大学生活を回顧するとやはりスタートは受験から始まります。

高校の時から大学は東京と決めておりました。1週間程度、都内ホテルに泊まり込みで4大学を受験しました。各大学試験場では大半の受験生は私服を着用していましたが、私は高校の制服しか用意していなかったため田舎から上京した現役受験生とすぐ分かり、ちょっと気後れした記憶があります。4大学中、2大学で合格し東洋大学を選びました。

東洋大学の入学金と年間授業料は、他の大学と比べ安かったこと、白山キャンパスは文京区に位置し、交通機関も比較的便利であることから迷わず東洋大学に入学を決めました。大学厚生課に掲示されている下宿斡旋の紹介により板橋区氷川町にある下宿(賄付き月2万円)を契約しました。

それから2年後、練馬区大泉学園駅近くの下宿(部屋のみ月1万円)に引越ししました。何れの下宿先も大家さんはとても親切で、当時携帯電話もない私にとつて緊急な用件で電話が架かってくれば連絡して頂き、また親からの郵便物や現金書留等を私の部屋にまで届けてくれるなど、本当にお世話になり助かりました。

最初の下宿先では、私の他に東洋大学新入生2名が一緒に間借することとなり、大学の事や都内の情報等についてお互いに話し合ったり教わったりして、非常に心強かった事を覚えています。一緒に近くの銭湯に行ったり、部屋で酒やコーヒーを飲みながら夜遅くまで語り明かしたり、また休日の昼には、近くの「大三元」というラーメン屋に一緒に行ったことが今でも懐かしく良き思い出となりました。

1973年(昭和48年)当時は、都内の大学では学生運動がまだ盛んに行われており、白山キャンパスも時々、学生連合グループによる活動が行われておりました。日によっては、ロックアウトとなり授業が臨時休講になり、また騒々しく重々しい雰囲気の中で授業・講義を受けることもありました。一般教養ドイツ語の前期試験の最中に十数名のグループが教室に侵入したことにより試験が中止となった時は本当に唖然としました。

3年次白山キャンパスにて(後ろは2号館)

奨学金受給と共励会活動で広がった世界

入学時に生活費の補填として日本育英会奨学金の申請を行い、受給することが出来ました。当時、一般貸与1ヵ月分の支給額は8,300円でしたが、私にとって貴重な生活資金でした。

①支給日になると、受給対象の学生は窓口で支払票に名前を書き、受給者証と一緒に窓口受付担当者に提出する。
②窓口受付担当者は支払票と受給者証を受け取り、確認してから厚生課職員に引き渡す。
③厚生課職員は支払票と受給者証および手元帳票関係資料との確認・チェックを行ってから銀行担当者(協和銀行白山支店の行員)に支払票と受給者証を引き渡す。
④銀行担当者は各々を確認後、用意した支給現金と受給者証をカルトに入れ、窓口受付担当者に手渡しする。⑤窓口受付担当者はカルトに入った支給現金と受給者証を確認後、当該受給学生に手渡しする
というのが一連の流れでした。

忙しそうに窓口受付を担当している学生の一人から私に「宜しかったら中に入って窓口受付のお手伝いをしてくれませんか」と頼まれたので、厚生課事務室の中に入り言われる通りのことを手伝いました。

厚生課の中で作業している数名の学生は、奨学金を受給されている本学の学生であり、奨学金支給に関わる奉仕活動として窓口受付業務の補助手伝いをしている有志の方達でした。窓口受付業務が終了してから、奨学金受給者の有志の集まりで組織している同好会「共励会」のメンバーとして入会を勧められ、その場で私は「共励会」に入会しました。

「共励会」事務室ははっきり覚えていませんが3号館2階の一室にあり、授業の合間に事務室に顔を出していました。当時の共励会メンバー構成は17~20名程度だったと思います。奨学金支給日に厚生課窓口受付補助を行う傍ら、共励会の主な年間行事は、①教育機会均当法に関する問題・課題点を整理し、有識者に講演をして頂く、②春か秋の年1回親睦ハイキング実施、③白山祭に模擬店を出店することでした。

これ等の年間行事を定着させる事を通して「相互扶助と親睦の共励会」の組織の拡大と発展を図ることが可能になりました。3年生になると、私は、「共励会」会長の職を引き受けることになりました。共励会の皆さんのご協力・ご尽力を賜りながら職責を全うすることが出来ました。本当に有難い事でした。

学外生活を点描する

生活費はギリギリの状況で在学中は質素な生活でした。旅行費用資金を貯めるために短期間のアルバイト人生でした。

①1年目は夏休みに帰省して、酒小売店で1か月の配達作業
②2年になると、渋谷パルコ・西武百貨店で清掃作業2ヶ月間、志賀高原ホテルでレストランのボーイを夏休み期間中、飯田橋書店で書籍の整理運搬作業を1ヵ月間
③3年は千代田区のホテルニューオオタニでベルボーイとして2ヶ月間とアルバイトの連続でした。

多分、後輩の皆さんも同じ様な企業でのアルバイト生活を経験していらっしゃると思います。先輩から後輩へ引き継がれていくアルバイトロードなのでしょう。このアルバイト収入で多数の旅行をすることができました。主な旅行先は能登半島・金沢市へのレンタカー旅行、会津若松市経由秋田県の田沢湖でのスキー旅行、富士川口湖と山中湖バス旅行、日光・中禅寺湖方面への列車旅行、富士山山頂へのバスツアー、共励会メンバーとの九十九里浜・水戸方面への卒業旅行などです。

なんといっても頑張ったのは、徒歩での山の手線夜間一周を2度実施した事です。当時、高輪ゲートウエイ駅は有りませんでしたから29駅を歩き、徒歩距離にして42キロぐらいありました。睡魔と闘いながらの完歩でしたが、達成感は相当のものでした。営々と努力し続ける東洋大生の面目躍如でした。

3年次ホテルニューオオタニのバイト仲間と

社会との接点を求めて走り出す。86,000時間と102,200時間

1977年(昭和52年)3月に卒業し、山陰合同銀行に入行しました。金融マンとしてのスタートでした。母体行と関連会社出向を含め、金融機関に通算43年間勤務し、この間、法人・個人を主体とする窓口受付相談業務・融資渉外担当業務、関連会社に出向してから銀行附随サービス業務等の仕事に携わってきました。人事異動は島根・鳥取・岡山の3県に渡り10回の転勤を行ない、これにより通算で10年間単身赴任を経験しました。

定年退職前の数年間はとても忙しく、自分の時間も持てなかったので「ゆっくりしたい」と言う気持ちしかなく、再就職は落ち着いてからゆっくり考えるつもりでした。そして、退職した当初は楽しかったのですが、心から楽しいと思えたのは2ヵ月間ぐらいまででした。「退職後、ようやくノンビリ出来るから、生きがいなんてわざわざ探す必要はない」と思った方、定年後の時間の長さを想像したことがありますか。

22歳から65歳まで43年間は働いています。会社に拘束されている時間が1日8時間で年間250日働いたとします。

8時間×250日×43年=86,000時間

定年後は自由に使える時間が1日14時間だとして、それが365日あります。男性の場合65歳からの平均余命は約20年です。

14時間×365日×20年=102,200時間

43年間会社で過ごした時間以上の時間が、定年後に待ち受けているのです。暇を持て余すというより、何もしないで過ごすことの方が如何に耐え難いことであるか実感しました。

退職後の3ヵ月目には充実感が無く、楽しくも無い日常に「これでは駄目だ」と考えるようになり、ハローワークに通い、仕事を探すことにしました。ハローワークの紹介で島根県労働局の雇用調整助成金申請相談員としてハローワーク安来に1年間勤務し、その後、現職であるJAやすぎライフサーサービス葬祭会館に転職し、1年半が経過しました。

今までに経験したことが無い職種ばかりで、とにかく覚えることが多く何時もメモ帳を用意して書き込んでいます。木箱に入った祭壇をご自宅までトラックで運んで祭壇組み、1週間後に再び空木箱をトラックでご自宅まで運んで祭壇撤収、葬祭会館で流れ焼香がある場合は、テント立て・駐車場ご案内、法要ギフト商品や引き出物等をご自宅まで持参収納、ご請求書の持参および集金業務、商品在庫管理と数量把握、葬祭会館内外の清掃業務、その他多くの補助業務を行っております。

退職後、引き続き働くのはお金のためだけではありません。社会との接点を持つこと、自分がまだ社会で必要とされているという「生きがい」「やりがい」を感じることが大切であると考えたからです。そして、働くことによって健康維持にも繋がるものと思っております。また最近、大学が注力している「リカレント教育」の必要性を大いに感じています。

現役時代は嫌な上司、嫌な仕事であっても生活を守るためと我慢することも多かったと思います。退職後は、この気苦労が無くなります。「生きがい」「やりがい」のために働いている訳ですから嫌になったらそこで考えればいいのです。毎日フルタイムで働く必要もなく、自分の体調や体力などを考えながら調整することも出来るようになります。当然、給与は少なくなると思いますが、自由な働き方ができることが定年後の仕事の魅力です。

しかし、逆にこの働き方をネガティブに受け取ったり、やらされ感をあらわにしたりすると、モチベーションが下がりやる気が一気に失せてしまうことになります。私も現在の仕事が中々覚えられなく、この年になって自分の情け無さを痛感し、また職場内の人間関係にも悩んだりして精神的に落ち込み、一時期仕事を辞めたいと思ったことがありました。

初心に戻り「仕事が嫌になったら何時でも辞めてやる」との気持ちに切り替え、どんな事にも愚直になって基本動作ABC(「当たり前の事を」「バカみたいに」「チャンとやる」)を行うことを徹底し、自分自身の「過去のちっぽけな肩書のプライド」を引きずらないよう意識改革に努めました。そして、素直な気持になって話の輪に溶け込むよう心掛けたら、肩の力がだんだん抜け気持ちが楽になりました。

最近になって、職場の同僚から「石川さん、頼りにしていますよ」と言われるようになりました。この先どうなるのかまだ分かりませんが「自分の体調や体力などを考えながら、少なくとも70歳ぐらいまで今の仕事を続けていきたい」と考えています。私と同世代や後輩の皆さん、健康には十分に気を付け、決して無理をしないよう前向きな気持ちで頑張っていきましょう。

エール・終活活動により残された時間を有意義に

「終活という言葉を聞いたことはありますか?終活は、死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備のことです。終活にはさまざまな形があります。子育てが終わり、定年退職を迎えた方ならば、これからの生活をどうやって充実させようかと考える方もいるでしょうし、まだ定年を迎える年齢ではなくても、自分の老後について今から準備をしておきたいと考える方もいるでしょう。現在介護をしている身内の方に、残された時間を有意義に過ごしてもらいたいと思っている方もいるかもしれません。

終活は自分の死と向き合うことですが、死生観は十人十色で、年代によっても死に対する考え方が異なります。終活を行なうことで、自分の置かれている状況を客観的に把握できます。終活でやるべきこととして、終活ノート(エンディングノート)を活用することをお勧めします。県内でも既に幾つかの市町村で活用されており、ご存じの方も多いかと思います。

終活ノートには正式な規格はなく、書かなければならない項目が決められているわけでなく、ノートの中に実際記載する情報量も人によって異なります。終活ノートを書く目的は、主に自分の死後、家族にかかる負担を減らすことです。

終活ノートに記載する主な項目について下記の通り項目を分けることで書きやすく、見る側も読み易くなります。

〇本人情報
〇自分史
〇関係する人物との間柄や連絡先
〇財産について
〇介護や医療について
〇葬式について
〇お墓について
〇遺言書について

終活ノートの記載内容については、その都度変更することが出来ます。内容を家族・身内親族の方に公表するなどして情報を共有することも必要ではないでしょうか。

県内でもコロナ感染により死亡された方の相談が彼方此方あるようです。そして、クラスター感染により病院施設等で亡くなられた故人の方、家族の中でコロナ濃厚感染接触者となった方、喪主の方が県外遠方に住んでおられる方、その他色んなケースでのご葬儀に関する相談申込があります。この様な場合でも終活ノートにより家族の方と情報共有している遺族の方は慌てることなく、揉めることなく早く手続きの話を進めることが出来ます。

終活は自分の人生を全うし、残される家族のために行う大切なものであります。自分の老後について考えたいという方は、思い立った日から少しずつ終活活動を初めて見てはどうでしょうか。

今回の東洋大学校友会への投稿は、私の終活の「自分史の一ページ」として位置づけてみました。今まで妻や家族にも話したことがない私の人生の一部分のページです。家族にも読んで貰いたいと思いました。校友の皆さんにもお付き合いいただきましたが 最後までお読み頂き有難うございました。

 

石川 泰州
1977年(昭和52年)法学部経営法学科卒
安来市切川町在住
メールアドレス mxva74m8@dojyokko.ne.jp

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