母校支援

ふるさとの未来を話そう

シーン1 「東洋大学アサッカー」と「池袋パルコ」での出会い

私は、バブル崩壊期真只中の1991年(平成3年)4月に経済学部経済学科に入学しました。ただ当時はまだその後に続く「失われた30年」と言われた景気低迷期の入り口でもあり、それなりに街には活気もあり、そこまでの不況感はなかったように思います。そんななか私は一年間の浪人期間を経て、東洋大学に入学しました。

まず大学での新しい生活を始めるにあたり、当たり前のように大学キャンパスのある朝霞にアパートを借りました。大学に近く、自転車で数分の距離でしたので通学には便利だろうと思い決めたのですが、2年後に引っ越すまではその便利さが同じ学部やサークルの友人たちの休息室になってしまいました。

私の大学生活においては勉強もですが、印象深いのはやはりサークル活動、そしてアルバイトの思い出です。大学に入学しても高校時代にやっていたサッカーを続けたいと思っていた中で最初は体育会サッカー部の練習にも参加しましたが(当時は今と違って、推薦などでなく一般入学の生徒も入部が可能だったと思います)、レベルの差を痛感し、その後声をかけてもらったサッカーサークル「東洋大学アサッカー」に入りました。

当時の「東洋大学アサッカー」は、8大学の大学リーグ「ユニオンリーグ1部」に加盟していました。当時のメンバーは本当に個性的で、破天荒なメンバーがそろっており、大学3年時にチームのキャプテンになったときは本当にこのチームをまとめていけるかと真剣に悩んだものでした。

しかし、シーズンが始まってみるとその個性的で破天荒なメンバーが一致団結してキャプテンの私を支えてくれました。当時の歴代最高順位のリーグ3位という好成績を残し、いまでも本当に感謝していますし、大切な友人たちです。

大学3年の1993年5月には、日本サッカー界において歴史的な出来事である、「Jリーグ」が開幕しました。まさにその後に巻き起こるサッカーバブルを体現したわけですが、前年の日本リーグ時代にガラガラで閑古鳥が鳴いていたサッカー場のスタンドがJリーグ開幕とともに、どのチームの試合も超満員、今では考えられないようなチケットの争奪戦が繰り広げられていました。

大学3年生東洋大アサッカー(前列中央が筆者)

そんななか、私は国立競技場で行われたJリーグの開会式のイベントに参加するという貴重な体験もすることができました。Jリーグの開会式で各チームのフラッグが国立競技場内に出てくる映像を覚えている方も多いかと思いますが、私はガンバ大阪のユニフォームを着てフラッグを持っていたなかの一人でした。

実は、私たちが担当するチームはガンバ大阪とサンフレッチ広島のどちらかを選択するようになっており、島根県出身の私は当然のようにサンフレッチェ広島を希望しました。しかし当時はガンバ大阪のほうが知名度の高い選手が多く(ちなみに監督は世界の釜本さんでした)、参加メンバーの多数決で残念ながらガンバ大阪になってしまいました。開会式が終わるとその後に行われた開幕戦、ヴェルディ川崎VS横浜マリノスの試合を警備という名のもとにスタンドの最前列で観戦?できました。

三浦カズ、ラモス瑠偉、北沢豪、木村和司、ラモンディアスなどまさに当時の日本サッカー界のスター軍団の共演を間近で観戦することができました。その後同じく1993年10月に起きたサッカー日本代表のドーハの悲劇にも直面し、アメリカで開催されたワールドカップ観戦ツアーをキャンセルするということもありました。今思えば日本サッカー界の激動の瞬間に立ち会えたことは本当にかけがえのない貴重な経験となったと思います。

次にアルバイトの思い出です。入学後まもなく池袋パルコのレストラン街にあった「とん通」というとんかつ屋でほぼ4年間働きました(現在、お店は移転しているようです・・・)

当初、調理場の皿洗いを担当していましたが、働いていくうちにいろいろなことを教えてもらい、正社員しかできなかった揚げ物の担当や材料の仕込みや注文、まかない料理の担当に至るまでお店の調理場のほぼすべての仕事を任せられるようになりました。就活の時期には、社長からお店に就職のお誘いがありましたが、地元帰って銀行員になりますと丁重にお断りしたということもありました。

いまでも簡単な料理ができるのは、この時のアルバイト経験が活きているのだと思います。アルバイトの日以外でもお店に行くとご飯を食べさせていただき学生には本当にありがたかったです。

大学卒業の時には母親とお店に行き、皆さんを紹介したところ、母親に「本当にいい人達に出会えて、いい経験ができてよかったね」と言ってもらったのはとてもうれしかったです。この時の経験で人との出会いは大切であるということを学んだ気がします。

余談ですが、妻とはここのアルバイトで同じタイミングで採用された同期として知り合い、卒業後に結婚、今に至ります。将に「池袋パルコ、ブラボー」でした。

シーン2 「金融マン」として考える

東洋大学での授業は、ゼミが印象的な思い出です。大杉八郎先生の金融政策論を受講し、「日本の銀行業の合併問題について」を研究テーマとしました。島根の山陰合同銀行は、今では当たり前ですが、当時の地銀では数少ない広域展開(島根県・鳥取県)をしている銀行で有ったこともゼミのテーマにした理由の一つです。

就活をするにあたり、都会での生活が嫌ということではありませんでしたが、やはり地元に帰って、地域のために働きたい、地域に貢献したいという思いが強く、公務員か金融マンをめざし1995年(平成7年)に卒業し、地域金融機関である山陰合同銀行に就職しました。

以来、昨年の2022年(令和4年)1月に退職するまで、26年間にわたり金融マンとして地域(島根県、広島県、兵庫県、大阪府など)で、様々な金融業務に携わってきました。広島、兵庫、大阪の支店では企業の新規開拓が主な業務でした。特に大阪の中心エリアでの新規開拓は、銀行の知名度も低く大変苦労をしました。

一日、数百件の飛び込み訪問をする中で、面談ゼロ件といった日が何日も続き心が折れそうになりました。ただ、地道に訪問活動や提案活動を継続していった結果、少しずつではありますが面識も増え、取引頂く企業も出てきました。その苦労と喜びは忘れることは有りません。

余談ですが、地元山陰で、山陰合同銀行のテレビコマーシャルが流れています。「女性行員が企業の社長へ業務提案を行ない、認められられるシーン」です。あのコマーシャルは、私たちの実体験だと思いしみじみと観ています。

さて、26年間の金融マンとして私が学び、培ったことは「現場主義」という言葉に表されます。稲盛和夫氏の「京セラフィロソフィー・日々の仕事を進めるにあたって」のなかにも語られています。「ものづくりの原点は製造現場」、「営業の原点はお客様との接点」、「現場は宝の山」、「絶えず現場に足を運ぶことで、問題解決の糸口を見つけ出す」。

これは、製造や営業に限らず全ての部門に当てはまる事です。文字通り「顧客、地域から学び、教えを受け、共に育っていく」という意味で、私の生涯のテーマでもある指針だと思っています。

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シーン3 「地方政治家」への旅立ち

私が、2022年に長年勤務してきた山陰合同銀行を退職したのは、地方政治家であった父が2020年(令和2年)に亡くなり、その父の志を受け継ぎ深化—発展させようと思ったのがきっかけです。

父は30年以上のキャリアを持ち、「ふるさと島根」、「ふるさと浜田」に対する熱い思いを持っていた政治家でした。私が社会人に成ってからは、あまり親子としての会話は有りませんでしたが、私の仕事を通じて沢山の方から父の仕事の姿を聞く機会がありました。

また、闘病中にもベッドの上で地域、地元の事を考え、行動を起こそうとする政治家としての強い信念を感じとることが出来ました。多くの方からこれまで父がなしてきた事、携わってきた事の数々を教えて頂き驚きました。当然なしえなかった事、未完の志も有ります。

その様な事全てを含め、私は金融マンを辞め、父の志を引き継ぎ、出身地である浜田市に帰り、地方政治の世界を志し、活動をする事にしました。50歳にしてゼロからのスタートでプレッシャーも大きく、父から受け継ぐバトンは日々、大きく、重くなっていきますが、自分が生まれて育った地域の為に活動できる喜びを感じながら「現場主義」の活動していきたいと思っています。

いま人口減少や少子高齢化など地域が直面する課題は沢山ありますが、これまでの私の「知識」「経験」「人脈」を活かしながら、すこしでも「ふるさと島根」「ふるさと浜田」の発展に貢献できるように頑張っていきたいと思います。

今回の投稿にあたり、自分の大学生活を振り返ってみると出会いに恵まれ、人に恵まれた大学生活であったと思います。社会人になってからの自分自身の考え方や行動の基本は大学時代の様々な経験等にあると感じています。また、今回の投稿を通じて、今後東洋大学校友会の皆様ともご縁がありましたらうれしく思います。とりとめのない文章でお恥ずかしい限りですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

最後に校友会の皆さんの益々のご発展を心から祈念しております。今後ともよろしくお願いします。

1995年(平成7年)
経済学部経済学科卒
岡本 淳

浜田市金城町七条イ609
<後援会事務所>浜田市金城町七条イ682
Tel 0855-42-1301 fax 0855-42-2298
e-mail okamoto-jimusho1301@outlook.jp

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