母校支援

隠岐に学ぶという生き方

「ラッシュアワー受験と学生生活—常盤台の青春」

1982年(昭和57年)1月、夕闇に包まれた東京駅に入る新幹線の窓から覗く都会の光は、自分が受験生であることを忘れさせる程に輝いて見えたのを憶えています。受験人口が大幅に増えた時代でした。試験で訪れたどの大学も受験生でごった返していました。特に今よりずっと狭かった白山キャンパスは、まるでラッシュアワーの駅のように校門から教室まで人波が繋がっていました。

隠岐高校の進路指導の先生が上京前に断言したように「すべて絶対合格する筈がない」と諦めていましたが、予想に反して私の元に3通の合格通知が届きました。

哲学と社会学で有名ということが、東洋大学を選んだ理由だったような気がします。入学手続きで初めて訪れた畑の真ん中の朝霞キャンパスには多少失望しましたが、いずれにしろ、パッとしなかった高校時代の自分を変える入口に立ったという期待感に包まれていました。何も分からないまま、隠岐高剣道部の先輩で前年に入学していたFさんの誘いで、ウッドペッカーテニスチームというサークルに入りました。

人気漫画『エースをねらえ!』と日本人プロテニスプレイヤーの草分け神和住純さんの影響だったのでしょうか、硬式テニスがブームとなっていました。かつて丸刈りで硬派だった先輩も髪の毛をビートルズのように伸ばし、スタジャンを着てラケットを手に青春を謳歌しているようでした。

入学した年の大学での一番大きな出来事は、東都大学リーグでの野球部の優勝でした。後にプロ野球に進む仁村徹さんが当時の東洋大学野球部の絶対的エースで、アンダースローの美しいフォームで相手チームの選手を抑える姿は私たちの心を躍らせました。

優勝決定戦には1万2千人もの学生が神宮球場に集まり、社会学の権威だった磯村学長も応援に駆け付けられて大学の一体感を強く感じた記憶があります。因みに応援を仕切っておられたのは学友、小石川酒店の親父さんでした。優勝の瞬間は球場には紙テープが投げ入れられ大きな歓声に包まれました。今では考えられないことですが、白山キャンパスでは樽酒が振舞われ壮大な酒宴となっていました。

東都優勝記念で(最後列左から4番目が本人)

文系の教養課程が朝霞キャンパスで行われていたため、東洋大の学生の多くは東武東上線沿線にアパートを借りていました。経済学科の私も2年時に池袋から5駅目の常盤台に六畳一間風呂なしトイレ共同の古いアパートを借りました。常盤台は東上線の田園調布と言われていて、北口付近は道が駅から放射状に延び綺麗に区画整理された閑静な住宅街になっていました。ただ、私のアパートのある南口は下町風情が漂う古い町並みで田舎育ちの私にとってはとても居心地の良い場所でした。

銭湯に通う道の途中のコンビニのアルバイト募集の張り紙を見て、そこで働くようになると「君は東洋の経済学科だよね」とレジで突然、客から声をかけられました。彼は同じ学科の同級生N君で、とても真面目そうな印象でした。すぐに打ち解けた彼に、私が書いていた小説を見せると「小説って難しいなあ」と批評する前に慰められたのを憶えています。確か椎名誠の作風を真似た『常盤台の青春』という題名の稚拙な短編でした。

3年次に入ったドイツ経済学の小倉ゼミでは、ネガティブなイメージしかなかった戦時下のドイツの新たな一面を学ぶことができました。また、今まで遠い存在だった教授と机を囲んで勉強する。河口湖のセミナーハウスでの合宿では一緒にサイクリングをする等、先生を身近な存在に感じられ、学ぶことの喜びを教えられたような気がします。

4年次に教授の国内留学でゼミが閉鎖となり、私はコンビニで知り合ったN君が在籍する財政学の八巻ゼミに移りました。ここのゼミ生はとても仲が良く、ゼミが終わると夕闇の中、他愛もない話をしながら巣鴨まで歩くことが恒例になっていました。途中にあるモスバーガーで照り焼きチキンバーガーを食べることや、オーダーメイドの靴屋のウィンドーを覗くのも楽しみでした。

「就職と転職—玉川上水横で太宰を思う」

1986年(昭和61年)に卒業すると、海外に支社があることと、一部上場という理由で決めた建築資材を扱う専門商社に入社しました。横浜営業所の経理部に配属されると、すぐに自分の安易な選択を後悔することになりました。そこでは日中は受注業務を行い、その後深夜まで経理の仕事を残業代なしで行うことが慣例となっているようでした。

「業務部がちゃんとあるのに経理部が受注業務を行うのはおかしい」と有名国立大出の銀縁眼鏡をかけた上司のFさんに意見を言うと「注文があるから、みんなの給料が出るんだよ」と諭されました。その言葉は新聞を読んでいる暇そうな部長に言うべきだろうと思いましたが流石にそれは言えず、その後の係長との面談で訴えても「君は面白いことを言うね」と呆れられる始末でした。私は、この会社に自分の未来を見ることができないと、入社3カ月で辞表を出しました。

会社の寮を出て行き場のない私が頼ったのが、同級生のN君でした。彼は以前と同じように常盤台のアパートに住みながら日用品メーカーの本社で働いてしました。彼の部屋に入ると自分は社会とまだ僅かに繋がっていると安堵したのを憶えています。仕事を失ってみると自分が社会的にとても弱い立場となったのだと分かりました。

アパートを借りるのにも苦労する始末で、就職浪人中と勝手に自分の身分をつくって学生時代よりも安い四畳半一間、風呂なし、くみ取り式トイレ共同の部屋を友人の紹介で何とか契約することができました。久我山にあるそのアパートのすぐ横には、私が好きな太宰治が入水した玉川上水が流れていて緑も多く再起を図る場所としては悪くない環境に思えました。

会社を辞める時に周りに豪語した広告代理店への転職を考えていましたが、いざ調べてみると中堅以上の代理店は中途採用の条件が経験者となっていて未経験の私は応募すらできないことが分かりました。夢を追いかけている場合じゃないと気が付き、流行りだったシステムエンジニアの求人に応募してみても適性試験で跳ねられる。

途方に暮れ、大手電機メーカーに就職した同窓生のI君に相談すると、彼の武勇伝を聞かされた挙句「お前はアホか、広告会社に勤めるって言ってただろう」と崖から突き落とされるようにアホ呼ばわりをされ、我に返りました。

その後、私は小さな広告会社の仕事を見つけました。給料は下がり福利厚生も十分ではない会社でしたが、そこにいる社員の多くが「広告マンとして成功したい」という夢を持っていました。校友で求人情報大手R社出身のディレクターSさんは、惜しげもなくコピーライティングや企画書の書き方を指導してくれました。

都内の通信会社のサマーキャンペーンのPRのコンペに参加した際は、紙粘土で東京をイメージした島を作って『~会話が溢れる島~コミュニケーション アイランド』というキャッチコピーをつけてSさんに提案しました。「隠岐の島か」と呆れ顔のSさんは、自分のコピー案を取り下げて、私の案を採用してくれました。そのコンペに勝ったという知らせがあった時、徹夜で企画書や絵コンテを仕上げてくれたチームのメンバーが泣いて喜んでくれました。広告会社での時間は、夢を追うことの素晴らしさを教えてくれました。

八巻ゼミに仲間たち(最前列右から2番目が本人)

「帰島と自立~隠岐コミューン宣言」

1994年(平成6年)、31歳で隠岐に帰り、妻の実家の書店を継ぐことになりました。元々、物書きを夢見ていた自分にとって、本に関わる仕事に就くことは悪くない身の振り方だと思いました。ただ、思い描いた仕事とは大きな隔たりがありました。自分が仕入れた文芸書は殆ど売れず、週刊誌や月刊誌を配達することに追われる。今まで身に着けた企画書を書くといったスキルも全く役に立たない。自分がここに居る意味が見いだせない日々が続いていました。

そんな中、「隠岐の島町教育文化振興財団主催の第一回隠岐学セミナー」という講演会に本を売りに行くことになりました。セミナー講師で作家の松本健一先生が書かれた『隠岐島コミューン伝説』という単行本が段ボール一つ分届いていました。松本先生は後に『評伝 北一輝』全5巻で、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞を受賞されますが、この時はまだ一般的には有名ではありませんでした。

2,000円近くする単行本がそんなに売れる筈がないと高をくくって、のんびり構えていると、セミナー参加者が次々と本を買いにやって来ました。開演までの30分程で段ボール一箱がほぼ空っぽになりました。その本の売れ方は衝撃でした。

私は残った本の一冊の表紙を開き取りつかれたように読みました。そこには、幕末の隠岐に起こった革命が記されていました。外国船が頻繁に隠岐近海にやって来る中、島を自ら守ろうと隠岐の若者たちが島を統治している郡代に文武を学ぶ学校の創設を嘆願する。ただ、「農民に学問や武芸などいらない」と突っぱねられる。

若者たちは合議を繰り返した上で決起を決意する。1868年春、島内を巡った檄文に松明を手に3,000人が集まり郡代屋敷を取り囲み郡代を追放する。そして、世界にも稀にみる農民による自治国家(コミューン)を成立させる。自治国家は、81日後に松江藩の逆襲で14名の命とともに消える。そこには全く知らなかった誇り高き隠岐の若者たちの姿が描かれていました。

この本は、私のそれからの人生の指針となりました。その後、私は隠岐学セミナーの実行委員となり、年に一度全国から集まる参加者と共に学ぶようになりました。大学時代のような時間を隠岐で過ごせるとは思ってもみませんでした。そして、セミナーのガイドブックに寄稿した私の文章を読んだ松本先生から出版の話を頂くことになりました。

著書彩々でも紹介しています。https://www.alumni-toyo.jp/book/

2008年、私が書いた本『隠岐共和国ふたたび』が論創社から全国出版され、その年の隠岐学セミナーでも松本先生の本に並べて販売されました。セミナー参加者が私の本を次々と手にする光景は、まるで夢を見ているようで実感が湧きませんでした。この本は、八巻ゼミOBのM君のお世話で東洋大学の学報にも紹介して頂きました。

2014年に松本先生が急逝され、隠岐学セミナーは終わりました。それからの私は20年程前に起業した「隠岐堂スクエア」の仕事に追われる生活を送っています。立ち上げの際に同窓生で私を以前アホ呼ばわりしたI君に助言を貰いました。本人は記憶にないようですが、彼の言葉は私にとって天のお告げだったように思います。

個人としては2019年に、詩集『隠岐』を出版しました。隠岐の生活の中で書きためた詩や、2013年度島根県民文化祭散文部門で知事賞を頂いた松江を舞台にした短編小説「バースデイプレゼント」他、短編小説2編を収めたものです。鳥羽伏見の戦いの参謀で隠岐島コミューンの精神的指導者中沼了三先生の生涯を描いた『中沼了三伝』ハーベスト出版刊では、巻頭の概論を担当させて頂きました。いずれもAmazon他、島根県内の一部の書店で販売頂いています。

「友と母校 シフトチェンジ始まる」

子育ても終わり、間もなく還暦を迎えます。そろそろ、人生のシフトチェンジをする時期なのでしょう。私は今、松本先生から頂いた最後の手紙に書いてあった「君たちだけで隠岐学セミナーができる筈です..」という宿題にとりかかろうと思っています。

SNSの普及は、今まで疎遠となっていた大学時代の友人との縁をもう一度つないでくれることになりました。八巻ゼミOBメンバーのSNSに「いいね」をすることは、すでに日課のようになっています。2019年(令和元年)には、ウッドペッカーテニスチームの同級生が約30年振りに日光で集まることになりました。東武線の北千住駅で指定の電車の乗り場が分からず迷っていると、同じように迷っている同級生のTさんを見つけました。

挨拶もそこそこに二人で乗り場を見つけて発車ギリギリで乗り込むと、幹事のKさんが昔のキャラそのままに、あきれ顔で私たちを待っていました。そして、彼女の車内販売への一言「ビールを下さい」で真昼の呑み会が始まりました。静岡、新潟、千葉、埼玉、東京、現地からと懐かしい顔が現れ、参加者全員が揃うと、まるで当時の合宿に参加しているような錯覚に陥りました。青春期のひと時だけを一緒に過ごした仲間でしたが、それからもずっと共に時間を重ねていたのだと感じました。

私にとって東洋大学は、人生の可能性を広げてくれる場所でした。そして、そこで出会った友人たちは、私の人生の転機に貴重な助言をくれ励ましてくれました。改めて限りなく自由で希望に溢れていたあの時間に感謝したい思いです。近年の母校の躍進には驚かされています。スーパーグローバル大学採択や学部の新設・再編、スポーツでの在校生の活躍には励まされる思いです。特に箱根駅伝はテレビで応援することが正月の楽しみの一つになっています。

今年のシード権確保の走りにも感動しました。今年も6月18日に「16th隠岐の島ウルトラマラソン」が開催されます。全国的にも有名な100キロと50キロのマラソンです。全国の校友、在校生の方で来島されましたら、お声掛け下さい。

末筆ではございますが、母校の今後益々の発展と校友の皆様のご活躍ご健勝を心よりお祈り致します。

 

1986年(昭和61年)
経済学部経済学科卒
牧尾 実(旧姓中林)
隠岐郡隠岐の島町八尾
メールアドレス kazetown485@gmail.com

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