母校支援

80年代の母校にノスタルジーを感じながら

東洋大学小石川寮1978

経済学部に入学したのは1978年のこと。東京での大学生活に憧れ、生活費を節約するために、今はなくなってしまった新入生向け小石川寮(文京区)に入ることになった。隣は銭湯で、文教地区の閑静な住宅街。近くには製本工場があり、寮の裏手には『真空地帯』で有名な作家の野間宏宅があった。少し足を伸ばせば小石川植物園、後楽園もあった。

1978年から80年代初めにかけてキャンパスで青春を過ごした世代に共通する当時のアイドルや流行を挙げるならば、キャンディーズは入学と同時に解散、その後をピンクレディーが破竹の勢いで現れ、山口百恵が引退し、松田聖子が人気だった。新入生の時はインベーダーゲームが大流行し、新宿ではディスコ(今で言うクラブ)が全盛だった。

キャンパスは文科系学部では教養課程が新校舎の朝霞キャンパス、専門課程が白山キャンパスだった。新入生の頃は学寮が白山の近くなのに、わざわざ朝霞まで地下鉄から東武東上線に乗り継いで通わなければならなかった。しかも、体育実技は理系のある川越キャンパスまでさらに足を伸ばす必要があった。

当時は、今ほど飲酒に関して厳しくない時代で、新入生歓迎行事でもビールが出たほどだった。当然、学寮においても酒盛りが不定期に行われ、騒がしかった。学寮裏手に住んでいた野間宏先生にとって、この小石川寮の喧騒はさぞや迷惑なものであったろうが、当時の住み込みの学寮管理者によると、学生に対してはかなり寛容な方であったという。

当時の白山校舎にて(在学時)

当時の白山キャンパスとその周辺

2年次以降は、練馬区の豊島園近くに住処を移した(その豊島園も2020年閉園してしまった)。それでも2年終了時まで朝霞キャンパス通いは続いた。現在では大学の設置基準が緩和され、都心部への回帰が見られるが、当時から都内の大学キャンパスの郊外移転が進んでおり、東洋大学もその先頭を走っていた。新しいキャンパスは、最初は目新しさを感じたが、「せっかく東京の大学に入学したのに」という失望感も高かった。

当時、一般的に大学学生自治会などの団体が今より力を持っていて、東洋大でも朝霞キャンパス移転反対闘争が繰り広げられていた。ある日の朝、大学に来てみたら、キャンパスは警備員たちによって封鎖され、入構チェックが行われていた。何か1960~70年代の学生運動の時代に逆戻りしたかのような錯覚に襲われたことを覚えている。そんなこともあって3年次以降からの白山キャンパスへの通学は朝霞通いよりも自由で刺激的だった。

ホームカミングデーで母校を訪れた卒業生は、建物など当時の面影がないことに驚かれるだろうが、現在の大学での講義も当時とは全く違うものであることに面食らうかもしれない。現在は1科目当たり半期で15回の講義が義務付けられており、学生の出欠はカードリーダーシステムなどで厳格に管理されている。教員による講義も同様で休講などはめったにない。

ところが、当時は今と違い、大学に着くと、まず表にある休講掲示板で休講になっている授業がないかどうかを確認したものだった。4回に1回以上、休講になるケースも珍しくなかったからだ。

学生によるいわゆる「自主休講」も多く、科目は通年で開講されていたため、結果、キャンパスから足が遠のくことが多かった。個人的には講義に飢えていた面もあったが、夏休みも長く、バイトもしやすかった。多くの課題に縛られることもなく、とりあえず金はないが自由だけはいっぱいあった。

休講になると本駒込の三百人劇場(2006年閉館)にATGの映画を見に行ったり、時には池袋の文芸座(1996年閉館、その後新文芸坐として再開)にまで旧作を見るために足を伸ばしたりもした。スマホもネットもない時代、情報雑誌『ぴあ』(現在はアプリ)は東京での文化体験に欠かせない羅針盤だった。

古書店で古本を漁り、時にその日の食費を切り詰めて本を購入することもあった。読書範囲は文学・哲学・社会科学に至るまで幅広かった。

ここまでの学生生活は同じ世代に共通していると思うが、4年生になったときも学問への憧憬は尽きることはなかった。当時は就活開始時期が今より遅く、大学に残ることも考えていたが、経済的に大学院に進むことは困難だった。採用を継続していた某証券会社に内定をもらったが、結局は辞退して、卒業後は郷里の愛知県に戻った。

研究者への道と現在の大学

郷里に戻っても家庭の経済事情は最悪だったため、しばらくアルバイト生活が続いた。学費が貯まったところで25歳のときに地元の大学院に入学した。ゲームセンター、物流倉庫、学習塾講師など様々なアルバイトをしながら、博士課程で経済史とアジア経済に関する研究を進めた。

33歳の時に現在の勤務校に就職が決まり、ようやくアルバイト生活に終止符を打つことができた。この頃までに執筆していたインドと日英の綿工業史に関する研究成果は、最新刊の『ビジネスヒストリーと市場戦略』(創成社)にも収録されている。最新刊では、アパレルやミシン、ウィスキーやチョコレート、プラモデルなど高度経済成長時代の代表的な商品群と外資系企業も含むメーカー側の市場戦略を取り上げた。合計で著書は8冊ほどになっている。

考えてみれば、少しの空白期間を除けば、私はずっと大学で学究生活を送っていたことになる。この10年の間に還暦を迎え、会社員ならば定年退職を経て再雇用の状況にある卒業生の方々も多いに違いない。東洋大学同様、校舎やインフラだけでなく、オンライン講義の定着も含めて、多くの大学はすっかり様変わりしてしまった。経営学部や経済学部に関しても、当時は珍しかった女子学生が全体の半数近くを占めている大学も珍しくなくなった。

こうした状況は、ホームカミングデーに母校を訪れてもなかなかわからないのかもしれない。隔世の感があるが、このブログと最新刊で、同じ世代のOB・OGの方々に少しでもノスタルジーを感じてもらえたら、筆者としては望外の幸せである。

1982年卒業
経済学部経済学科
澤田 貴之
名城大学経営学部国際経営学科教授 博士(経済学)

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