母校支援

哲学が育てた地方自治のまなざし

人生初の決断

1990年(平成2年)3月桜前線の北上に時をあわせて夜行列車で上京しました。深夜、窓際に座り、暗がりの車窓をぼんやりと眺めていましたが、京都駅に停車した時でした、涙腺が急に崩壊した淡い記憶を思い出します。

この時に「僕はもう島根に戻らない。必ずひと旗をあげてみせるんだ」という覚悟と「故郷の長江小学校から見渡す心の風景」が走馬灯のように浮かび感情が込み上げました。この覚悟に至るバックボーンは、高校時代まで遡ります。私の大学に行きたいという思いは、親の思いとは真反対のものでした。高校から地元での就職することを望んでいた親の期待に応えるため、松江商業高校に入学し、大変喜んでくれたことを思い出します。

野球部に入部し、甲子園を目指す日々でしたが、コーチの考えにあわず途中で挫折してしまい、そこから自分にとって「人生とはなんぞや」と人間の真実を探究する哲学的な高校時代を過ごしました。高校卒業後は、入学金と学費、当面の生活費を貯めてから大学入学に向かうことを決めていましたので、生協、ケンタッキーフライドチキンでアルバイトしながら宅浪で受験に臨みました。

今でも宅浪でうまくいかなかった夢をみます。周りの理解、協力があって初志貫徹できたんだと今になってありがたさがわかるようになりました。大学は、学費が安く、かつ伝統校を3校選び受験に臨み、2浪を経て、東洋大学に入学が決まりました。哲学の祖井上円了先生が創設された東洋大学は、私にとって感性を磨き人間性を高めるための原点となるところであったと思います。両親の期待を裏切ってまでも自分の意思で東京に向かう人生初の決断と実践となる「遅らせながらの20歳の春」となりました。

リーガルマインド

1990年(平成2年)4月、豊島区西巣鴨の家賃17,000円でどくだみ荘のような四畳半、風呂なし、トイレ共同の下宿生活から東京生活はスタートしました。

近所には銭湯や昔ながらの定食屋も多く存在し、下町風情が残され、また池袋、大塚、板橋からも近く、朝霞、白山にも比較的通学し易く、4年間過ごすのにはちょうど良い立地環境であったと思います。恥ずかしながら東京にいる間はテレビのない生活であったので家の中での娯楽が乏しく、唯一の楽しみはFM NACK5を聴きながら将来を夢想することであったと思います。

さて、「諸学の祖は哲学にあり」とする教育理念を掲げる東洋大学での学びは法学に向き合い、問題を法律を使って解決できる「リーガルマインド」を養うことにありました。元々正義感が強く不公平な社会に対する不満が強く、そういう社会を是正したいと思い、そのためにはどういった力を身につけないといけないかと自問自答問しました。人間と社会の洞察を深めることにより人自身と人が営む生活に寄り添い向かいあうことの大切さを東洋大学で学べたことが私の原点です。

そう気づかせていただいた感謝が母校に対する愛校心となり、今でも私の拠り所になっています。私にとっての哲学は、憲法の自由権と社会権の本質を知ることからスタートし、その思考は一生学び続けていくことを普遍化しました。「憲法13条 基本的人権の尊重」を心の柱とすることが全ての行動の源泉となっています。

大学での思い出は、法律という学問にのめり込んだ日々を過ごせたことにあります。それには理由があります。高校の時にはほとんど勉強していなかったのでその反動で東洋大学とその学びが私にとっては唯一のやりがいであり居場所でありました。知識の点と点が一つにつながり、線となる法解釈に導かれたときが嬉しく、そのプロセスの原体験を求める日々でした。ただ、それだけでは無味乾燥であり、寂しいものであったと思います。

ゼミの担当教授からは「もっと遊びなさい!」と言われていたことを思い出します。それ対しては『図書館部』ですと答えていました(笑)。

画像はイメージです

ゼミは、刑法を選びました。当時の刑法の教授陣は裁判官判事を退職された先生や刑事政策の高橋則夫先生の授業がおもしろく、構成要件、違法性、責任と3段論法でロジックを組み立て、結果無価値か行為無価値かという解釈方法にたって論じる刑法学と予防的な刑事政策との両輪がリーガルマインドの道を明るく照らしてくれたと思います。

ゼミは、東洋大学出身で司法試験も合格され、僕の目指すべき存在でありました今上益雄先生のゼミに入ることができました。ゼミは、判例研究、プレゼンとディスカッションという流れで刺激的な授業でした。法曹界を志す学友もおり、今まで一人で勉強していましたが、論法を駆使してディスカッションすることの楽しさを実感できる瞬間であったと思います。

節目で開かれるゼミコンでは、今上先生や学友と巣鴨でおおいに盛りがったことを懐かしく思い出します。2次会は、今上先生御用達の巣鴨北口にある場末っぽい(今上先生、ごめんなさい!)スナックで、少し大人になった気になりました。今上ゼミの同窓生、先輩、後輩とはいつかどこかでまたセッションしたいなと思える存在で今上ゼミは還れる空間、時間であり、かけがえのない場所でありました。

学生時代のチャレンジとしては、法学部長杯争奪法律討論会にエントリーし、1~4年生の法学部生が集まる会場で立論プレゼンを繰り広げたことを思い出します。テーマは認知請求権の放棄、民法の家族法にかかる課題で、学説研究のレポートを相当読み込んで臨みました。折衷説に立ったと記憶しています。

腕試しとトライした割には無難な説にたったことが悔やまれ,共にプレゼン時の緊張感が半端なく、私にとってはやらかした感があり、当時は1位をとれなかった悔しさよりも恥ずかしさが先にたっていました。ただ、この経験があったからこそ、トライアンドエラーの精神は私の成長の糧となり、空振りを続けても常にバッターボックスに立っていきたいという思いを確実にした瞬間でありました。

もちろん、東都リーグ春シーズンの優勝シーンを皆んなと喜びわかちあえたことも良い思い出です。午前中の授業を受け終えて、朝霞キャンバスからみんなで神宮球場に駆けつけ、三塁側スタンドからエールを送りました。日大戦を勝利し、桧山進次郎選手を擁した東洋大がリーグ戦を制した時、東洋大が一つになった、最高の瞬間でした。

1994年卒業式にて

オフタイム

学費をアルバイトで捻出する覚悟を持って大学に進学したこともあり、ずっとアルバイトに没頭したと思われがちですが、授業がある時は、図書館で遅くまで勉強する毎日で、ウィークデーは図書館部でした(笑)。

唯一、オリンピックの記念ビールを製造するバイトに、4年次、2週間ほど入り、ゼミに行かなかったため、今上先生に甚く心配されたとお聞きしました。そんなエピソードを思い出すとどれだけ大学での勉強が好きだったのかなと恥ずかしくなります。

アルバイトは、長かった春、夏休みを中心に派遣会社に登録し、明治乳業、グリコなどの製造工場で夜間勤務により、がっつりまとめて稼いでいきました。おかげで次年度に振り込む学費はなんとか自力でつくることができた反面、島根県には1年の夏の1回のみ帰省しただけで、東京で生きていく覚悟を自分のなかでは固めていったと思います。また、働きぶりも良かったんでしょうか、各所にリーダーとして派遣されるため、日給額が1,000円アップだったこともモチベーションがあがりました。

その一つの派遣先が苗場プリンスでのアルバイトで、ここは兎にも角にもおいしかった(怒られそうですね)。ご飯が3食付いて、スキーもでき、関東圏から大学生が集まり、同年代との交流が楽しかった。そのため苗場には2年、3年次と2年間冬・春休みにロングでアルバイトに行ったことは、無味乾燥になりがちな学生生活に潤いをもたらしてくれたと思っています。

法律型のサークルに入りたかったのですが、内弁慶的な性格もあり1年次まではどこにも所属せず、ブラブラし、2年春、新しく野球サークルを立ち上げ、メンバー募集をするサークル団体があり、友達と一緒に飛び込みました。他の大学生、甲子園常連校のメンバーも複数おり、荒川の河川敷で行わているリーグ戦に所属し、負けた記憶がないほど意外にも強豪チームになっていきました。楽しみながら野球できたことが新鮮です。

野球サークルに一緒に入った友達は鹿児島県出身で私と同じく2浪組であり、馬があったのだと思います。池袋の養老の滝だったか、お互いお金がある時に阿吽の呼吸で飲みにでていました。必ずホッケを頼んだことを思い出します。逗子の友達とは、一緒に今上ゼミに入った学友です。今でも出張で上京するときは時間を合わせて飲みに行ける友達ですね。

大学時代は池袋にある秋吉という焼き鳥屋さんでご褒美飯と称して特別な時に飲みに行っていたことを思い出します。川越の友達とは、ボウリング、卓球など池袋のロサ会館だったかで夜通しで遊んだ友達です。昨年度まで東京に転勤でいましたが、お互いおっさんになっても二人旅で、黒部ダム、善光寺をめぐったことが思い出のアルバムに追加されたことでしょう。

1994年卒業式当日、友3名で(本人右)

知行合一

大学の学びだけでは終わらせず、どのように活かしていったかということを最後のメッセージとしたいと思います。

バブルが弾けるギリギリのタイミングでしたが、就活は良い感触を得ながら進めることができ、東京の企業に就職が決まりました。東京で働くことは早い段階から決めていたので、親から反対されても突き通す覚悟で報告しました。頑固であった父親からは短い言葉でしたが「頑張れ」と思いもよらない応援メッセージが返ってきましたが、その瞬間、私の天邪鬼的な甘い思考が逆に振れていきました。もしかしたら、潜在的には「地元に帰りたい」と思っていたかもしれませんが、父親の一言で地元に帰ることを決心しました。

1994年(平成6年)大学卒業後、地元の公務員試験を受けることに方向転換し、結果、東京生活は5年目となりました。その時に島根県に戻り、試験勉強をすれば良かったのになぜ東京にいたのか、今となって振り返ってみるとヒヤリしますね(笑)。5年目は、鹿児島県出身の友達の隣のアパートに引っ越して、公務員試験までは試験勉強に集中する予定でしたが、友達と夜な夜な遊んで僕の人生終わったんじゃないかと、今でも路頭に迷う夢にうなされて起きることが有ります。

その時の焦燥感を物語っています。結果は人生の運をここで使ったのかと思えるような、島根県庁の採用試験に受かった奇跡の瞬間であったと思います。ただ、大学時代にしっかり勉強し土台があったこと、リーガルマインドという強みがあったことが運勢を左右したと信じたいと思います。

1995年(平成7年)島根県庁の最初の部署は土地改良事業の許認可など法律を読み解く部署の仕事からスタートしました。生きた法律に触れ学びが実践に変換することの難しさを痛感しました。ただし、ちょっとでも関わった農業農村基盤が県内に広がっていくダイナミックな様をみてやりがいを感じたことも間違いがありません。

次は、隠岐でケースワーカーの仕事でした。一転、住民福祉に携わり、ここでは憲法の学びが生きたと思います。一人の人生に寄り添うためにその人その人の基本的人権に向き合うことを考えて行動しました。もちろん、生存権は社会権ですのでその人にとっての自律を一緒に考えていったことは僕の県庁人生で行動指針のメルクマークになっていると思います。

次は、県庁に属しながら島根大学の大学院で行政法の学びを深めていくこととなりました。児童虐待の問題に立法的視点から向き合いました。法律討論会で立論した家族法の学びが生かされました。親権と監護権の制限、運用をロジスティックに思考し、こどもの権利を常に考えることが、私の県庁人生の拠り所になっています。

画像はイメージです

次は環境セクションです。地球温暖化対策や水環境の保全など環境権は、グローカル(グローバル×ローカル)な問題に向き合うことであり、規制行政と新たな創造行政との両軸を学ぶ日々でありました。環境部署では、途中の環境省出向も含め8年間携わりましたが、環境省時代に担当した政令改正は、閣議にかけるプロセス、大臣説明など痺れる経験を積ませていただきました。

そして、次は現在の産業振興を10年近く携わっています。島根県に高度産業の形成、人材集積を図り経済循環を創造することが私の長年のミッションとなっています。企業は常に進化していく生形態そのものであり、予定調和の振興策ではだめで、企業の皆さまのやりがい、生きがいを一緒になって創発していくことが大切です。

人と企業と社会を洞察して向き合っていくこと、まさにリーガルマインドの実践です。試行錯誤の毎日ですが、失敗の数だけ私たちの成長があると信じています。そういう県職員であり続けていきたいと思います。
僕の職業観は最近インタビュー記事として取り上げてもらっています。稚拙な内容ですが、併せて読んでいただきますと幸いです。

https://www.wantedly.com/companies/company_9977778/post_articles/466150

末筆となりますが、私は東洋大学が創造する文化・哲学、スポーツスピリッツをこよなく愛し、応援していく所存でございます。

「その1秒をけずりだせ!」

選手に寄り添う酒井監督のチームビルディングと鉄紺チームは私たちの心の支えであり、まだまだ頑張らなきゃと奮い立ちます。感謝です。また、私みたいな言うことも聞かない後輩を温かく見守って優しい言葉をかけてくださる校友会島根県支部の先輩の皆さまに大変感謝です。

だんだん(注)

(注)「だんだん」は、出雲弁で「ありがとう」の意味

安達 昌明
1994年(平成6年)法学部法律学科卒
松江市比津が丘在住

(フェイスブック)
https://www.facebook.com/masaakiadachi1110

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