母校支援

薄紫の山脈は、はるか希望の雲を呼び(島根県民の歌)

東京っていろんなものがあるのだろうな

高校時代は、将来の進路というか人生というか、ほとんど何も考えなかったような気がします。何者かになりたいとか将来の職業だとか、考えていませんでした。

本当に幼稚な考えだったと恥ずかしくなりますが、ニュースの天気予報で東京の夜景が映るたびに、「島根って田舎だよな」「東京って華やかだな」「東京っていろんなものがあるのだろうな」といつも思っていました。

大学受験を考えるにあたり、まず考えたことは「東京というところに行ってみたい。住んでみたい」でした。私立大学のなかでは学費が比較的安い東洋大学が目にとまり、奨学金を借りて、学生生活を送ることになりました。

1992年(平成4年)に東洋大学経済学部に入学し、東京に行って最初に思ったことは「人が多い」でした。入学当初はあまりの人の多さに駅で気分が悪くなったこともあります。「乗り物酔い」ならぬ「人に酔う」という感じでした。

山手線に乗るにも、東京の人は「○○駅で降りたければ、○号車に乗る」そうすれば降りたい駅の階段が近くにある。そういったことをするのですが、私はそのようなことも知らないので適当に△号者に乗り込むものですから降りたい駅で降りることができなかったことが何度もありました。とにかく人の多さに圧倒されました。

憧れの東京夜景(2016年)

スポーツ観戦とインターカレッジの時代

東都大学野球の観戦に何度か行ったことがあります。私が在学中の1992年から1995年は、のちに阪神に入団した桧山進次郎氏や今岡誠氏などプロ野球の選手になった学生が多数在籍していて、リーグ優勝もした強いチームだったと思います。神宮球場で応援歌(霊峰遠く望みつつ、見よ青春の潮の高まり)や校歌(亜細亜の魂再び此処に、目覚めしよろこび)と大声を張り上げたのは良い思い出です。

また、私は子供の頃から大相撲が大好きで、学生時代に初めて国技館で観戦しました。当時は若貴ブームでチケットを入手するのが大変でした。ちなみに私の贔屓は「寺尾関(今の錣山親方)」でした。

インターネットなどは無い時代でチケットを入手するために始発の電車で国技館に行き、長時間並んで整理券をもらい、なんとか手に入れたチケットは2階席の一番後ろでした。席は良くなくてもとてもうれしかったことを覚えています。就職で島根県に帰ってからの楽しみも国技館で大相撲観戦をすることで、コロナ禍前までは、何度も大相撲観戦に国技館まで行っていました。今後は幕内で活躍中の御嶽海関や若隆景関の応援に行ってみたいと思っています。

授業の記憶は薄れましたが、それでも経済学部の学生として、ゼミでのテーマは覚えています。「株式の持ち合い」を学びました。戦後の財閥解体後の日本企業の株式の持ち合い、1960年代の資本自由化、バブル崩壊による株式持ち合いの解消の歴史を学んだ事は、後に社会経済に対する私の知見の基礎となりました。

大学4年間の一番の思い出はサークル活動と人との出会いです。いまは無くなってしまったのですが「子ども会」活動を行うボランティアサークルに参加していました。このサークルは他大学のメンバーと共に活動する、いわゆる「インターカレッジサークル」でした。

私が在籍した時代のメンバーは、白山周辺の東洋大学、東京大学、お茶の水女子大学の学生が中心で、そのほかにいくつかの大学の学生が参加していました。子どもたちは文京区小石川周辺に住んでいる幼稚園から小学生が対象でした。学生の人数も子どもたちの人数も正確なところは失念しましたが、全部で数十人いてけっこう大人数だったように記憶しています。

イメージ画像

主な活動は、毎週土曜日の小石川エリアの公園での外遊びと毎週水曜日の家庭訪問でした。また年間行事としては、春と秋にはハイキング、夏には夏祭りを行っていました。正月には餅つき大会、公園周辺の地域で子どもたちと一緒に廃品回収もやりました。

土曜日の公園遊びは、子どもたちがその日やりたい遊びを学生と一緒にやるのが定番でした。幼稚園児は砂場遊びやすべり台遊び、小学校低学年・中学年は手つなぎ鬼やドッジボール、高学年は野球が多かったと記憶しています。年齢関係なくみんなで鬼ごっこや長縄跳びもしました。

当時は平成でしたが、今から思うと本当に「昭和の単純な遊び」を平成の時代に生きる子供たちに伝えていたと思います。「語り部」だったでしょうか。

公園遊びを終えると夕方からはお茶の水女子大学の学生会館の部屋を借りて、今日の振り返りをする真面目なサークルで学生もみんな熱心でした。振り返りが終わると池袋に出ていつも決まった居酒屋での飲み会。これもサークル活動の楽しみのひとつでした。

ハイキングに行く前は、事前に下見をして、実際に電車に乗り、子どもたちを何号車に乗せるだとか、万が一のために目的地付近の病院はどこがあるかとか、学生にしてはしっかりとリサーチしていたと思います。

夏祭りは、近くの商店街に寄附をいただきに歩き、櫓を立てて、提灯を飾り、学生がやるにしてちょっと荷が重いようなものでした。廃品回収はいつも活動している公園付近の住宅に事前にお知らせを配り、当日、お宅の前に出していただいたものを回収しました。

回収は子どもたちといっしょにリアカーを引っ張って行っていました。学生が数十人で1日中廃品を回収して、収入が約1万円だったように記憶しています。お金だけのことを考えたら、学生一人ひとりが1日バイトをして持ち寄った方がよほど大きな収入になるのですが、お金だけではない楽しさがありました。

子供たちと触れ合うインターカレッジを通じて、学内に限らず、幅広く同世代の人々に出会い、考え方に触れ、自分自身の精神的な成長に一歩前進できたと思っています。

人生をふりかえるには、もう少し先にしよう

就職活動は第一に東京に残る、第二に島根県に帰る方向で行いました。現在の就職活動はネット、オンライン面接などでしょうか。当時は、就職したい、あるいは興味がある会社に資料請求のハガキを書いていたように記憶しています。資料が届くと面接の日程が書いてありました。東京で民間企業を数社受けましたが残念ながらいずれも惨敗でした。

一方で公務員試験に向けて勉強もしました。ほんの数ヶ月でしたが、私にしてはそれなりに勉強をしたと思います。勉強場所は主に白山キャンパスの図書館でした。当時の白山キャンパスは建て替え工事の最中で、動線が複雑になっていたように記憶しています。

古い建物と新しい建物が混在していた記憶があります。図書館は新しくなっていたのかどうか記憶が不鮮明ですが、図書館には休館日を除いて、開館してから閉館するまで毎日通いました。静かで落ち着いて勉強に集中できる空間でした。帰宅は散歩がてら白山から巣鴨駅まで歩き、何故か巣鴨駅の前の「松屋」で牛丼を食べるのが日課でした。

1995年(平成7年)卒業後は、島根県職員として島根県に戻ることになり、現在も県の職員として働いています。これまで福祉関係、水産関係、土木関係の部署などその他さまざま部署で勤務し、県内各地を概ね3年に1度のサイクルで異動しながら現在にいたります。

島根県職員として、職業人生は30年弱でこれまでいろいろありました。しかし、今は人生100年時代と言われ、職業人生はもう少し先があります。現在はまだ「今日一日」「これから少し先」を考えて過ごし、振り返るのはもう少し先のことにしようと思っています。アインシュタイン風に哲学的な表現をすれば『狂気とは、今日やっている事と同じことをやり続けて、明日の結果が今日よりも、良くなることを期待する事』かな、と思ったりしています。

最後まで歩かないで走り切ろう

若いころから趣味といえるものは、ほとんどなかったのですが、2019年(令和元年)頃からジョギングを始めました。きっかけは、よくある「人間ドック」で要治療となったことです。毎年の定期健康診断は受診するものの、胃カメラが大の苦手で、人間ドックは避けてきたのですが、50才を前にして人間ドックを受けました。

結果はいわゆる生活習慣病(肥満・高血圧・コレステロール・肝機能・尿酸値など)で医師から強く言われたことはお決まりの「運動をしなさい」でした。怠け者の私もしぶしぶですが、運動を始めなければいけないなと思うようになりました。知人に人間ドックの結果を話すと「何か目標があったほうがよいよ」とアドバイスを受け、約5ヶ月後の10キロのマラソン大会を目標に、最初はウォーキングから始めました。

3ヶ月ほどウォーキングを続けて、少し体重が落ちてきてからウォーキングの中に軽いジョギングを入れることにしました。そうすると少しずつ走れるようになりました。大会直前の練習で初めて歩かないで10キロをジョギングできたときは、とてもうれしかったことを覚えています。

10キロのマラソン大会は、タイムはゆっくりでしたが、楽しく走ることができて完走。ここで運動を止めてはもったいないと思い、次の目標は「ハーフマラソンにチャレンジ」することにしました。しかし、ここでコロナ禍となり、全国的なマラソン大会は中止となりました。マラソン大会はいつ再開されるか分からない状況でしたが、ジョギングは屋外での運動ですのでぼちぼちと継続しました。

2021年(令和3年)10月に「萩・石見空港マラソン(注)」が開催され、ここで初めてハーフマラソンにチャレンジしました。タイムは制限時間ギリギリで決して速くはないのですが、完走できました。やはり嬉しく、その日は益田市の荒磯館で一泊。

走った後のビールは最高でこのマラソンを年に一度の楽しみにしようと思いました。翌年の「萩・石見空港マラソン」に再びチャレンジし、前回より2分だけタイムを短縮しました。タイムを目標にはしていないものの、年齢を一つ重ねてもタイムを更新出来たのは喜びでした。「その1秒を削り出す」ことが出来たどころか、120秒も短縮できたのですから。

(注)「萩・石見空港マラソン」:島根県益田市で行われる市民マラソン大会。日本で唯一、現役の空港の滑走路を走る大会です。

此処で次の目標を決めました。島根県職員として「フルマラソンへのチャレンジ」です。2022年(令和4年)12月に開催された「松江城マラソン」に参加、人生初のフルマラソン挑戦でした。ゆっくり、ゆっくり30キロ手前までは何とか走りましたが、その後は、歩いたり、走ったり。制限時間6時間ギリギリの5時間40分ほどかかりましたが、ゴールできました。

次の目標は「最後まで歩かないで走り切る」こと。いずれの日か、箱根を走った後輩のランナーと共に島根県職員ランナーとしてフルマラソンを走り抜けたいと思い、時間を見つけては練習に励んでいます。

島根県民の歌にある「ああ、うるわしの」、「ああ、ゆたかなる」、「ああ、やすらけき」わが島根を走り続けたいと思っています。卒業してからの楽しみは、正月の箱根駅伝の応援です。シード権争いの時代から、優勝を争うまでになり、ついに総合優勝を果たし、今や安定的な成績を残せる強豪校に成長したことは、卒業生としての誇りです。

陸上競技部の学生のみならず、東洋大学に学ぶ全ての学生が今後もそれぞれの場で活躍されることを祈っています。

1995年(平成7年)
経済学部経済学科卒業
小川 雅隆
松江市東生馬町在住

カテゴリー