母校支援

旅館経営の基礎を学んだ観光科・感謝を込めて

旅立ち・旅館の後継者をめざし

1967年(昭和42年)、私は短期大学・観光科に入学致しました。

私の実家は明治の初めに曾祖父が宍道湖湖畔で鰻屋を始め、昭和37年からは松江で和風旅館を営んでおりましたが、それが事の始まりだと思います。

他の校友の方も述べていらっしゃいますが、東洋大学は入学金等も安く、母が「この学校はとても良心的な学校ね。」と申して喜んでおりました。

入学して意外に思ったことは、実家がホテルや旅館ではない方が結構多かったことです。当時としては、まだ目新しい「観光」という分野に興味を持った人や将来を見据えての入学だったのでしょう。

学校では「これからはホテルの時代です」と教えられ、接客の基本として、「お客様は全て正しい」と教えられました。私がそれを実感するのは卒業後十年後です。

1982年(昭和57年)の島根県での『くにびき国体』を控えた数年前から松江にも大型ホテルがいくつも出来るようになり、ホテルとの競合も考えながら、和風旅館なりの顧客満足度を考えていきました。

国宝松江城

実習・ベッドメイキングから始まる

大学での授業は、一流ホテルの支配人の方等がいらっしゃいまして、講義がありました。ベッドメイキングの練習も行いました。夏休みとか冬休み等にいよいよホテルの実習に行くことになります。私はホテルの客室に配置され、ルームのお掃除をすることになりました。

いざホテルに行ってみますとやはり学校の講義の様に直ぐには役にたちません。ベッドメイキングだけではなく、部屋の掃除、アメニティセットのチェックなど様々な点検項目があり、ホテルの従業員の方から指導をして頂き、少しづつ仕事のやり方を覚えていきます。仕事に慣れるまでいつも緊張の日々でした。

ホテルの廊下には、私の毎月の仕送りの5倍の金額の高価な脚付きの灰皿があり、その周囲を掃除するときは緊張していました。掃除機のコードに引っ掛け壊してしまえば大惨事になります。

二年生になると、朝はラッシュアワーの中、赤坂見附で降りホテルへ通勤します。午前中はホテルで客室のお掃除をし、午後からは観光学や外国語の授業で夕方5時近くまでの授業でしたから忙しい毎日でした。

蛇足ですが、通勤・通学の途中には、あの時代を特徴づける光景を何度となく見かけました。学生運動が盛んで、ヘルメットを被り、タオルで口を覆い、角材を持った私と同世代の人たちがよく電車に乗ってきました。

何分あの格好ですから電車の中はシーンと水を打ったように静まりかえるのです。そんな時代でした。東洋大学も同じ様な光景でしたが、情熱はともかく、世の中は変わったのでしょうか。

二年生の大半を実習する事になったホテルは、客室係は全員女性でした。家庭的な雰囲気で私にとっては居心地がいい、有難い実習先でした。ホテルの実習で私が学んだ事は、お客様に対す接遇姿勢でしょうか。

大切なお客様が安心して寛ぐことが出来る清潔なお部屋、一日の疲れを心地よい寝具で休んで頂いて明日に備えて頂けるようなお部屋を作る事です。これは、後に旅館業に入る事になった私にとって良い学びでした。どのホテルの客室係も日々努めている事だからです。

余暇・占いを学ぶ

サークル活動も良い思い出の一つです。仲良しの友人と20~30人が所属する短大・学部合同の「易学研究会」に入りました。今も昔も時代を越えて、若い女の子は「占い」に何かしらの興味をもっているものですから。

易経の本、筮(ぜい)竹と算木などを揃え、学外から先生が時々おみえになって「占い方」などの指導をして頂きました。私には、どの様な未来が待つているのか、「占いの内容」は覚えていませんが。

二年生の夏休みは信州の松原湖で合宿をしました。サークルは創立がまもなかったので、私と友人はサークルの第一期卒業生になりました。

暮らし・開かない踏切

大学生といえば、やはり住まいとか、通学手段とかが懐かしい思い出として残ります。私は東上線の北池袋駅の近くに、出身県は違いますが、実家がホテル経営の友人とアパートに住んでいました。小さな駅を降りると、小さな喫茶店、小さな果物屋さん等がポツポツとあります。ここが本当に東京だろうかと私はしばしば思いました。

松江の商店街の方がよほど立派に見えるくらいでした。のんびりとした鄙びた風情の街でした。部屋でラジオから流れる曲は、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」でした。二人で、音楽を聴きながら、映画「卒業」の話が弾んだものです。青春でした。

この話を若い人に話しますと、「へぇー、東京に松江より田舎の所があったのですか」とビックリします。五十数年前の東京にはそんな場所がまだありました。まだ昭和のゆったりとした時間が流れていました。

駅を出ると直ぐ先に踏切があります。東上線と赤羽線(今は埼京線ですか)が上り、下り四本走っています。さあ、これがラッシュアワーになりますと、踏切の遮断機が上がらないという事がしょっちゅうおこることになります。

地方出身者の私や友人には全く想定外の事でした。10分、15分上がらないのはあたり前、私は最高50分近く待った事がありました。目の前には駅が見えているのに踏切が渡れず、電車に乗れない。毎日、祈るような気持ちで遮断機を見つめたものです。

大家さんが気の毒がって「あそこは色々問題になっていてね。ゆくゆく地下道を作る計画も有るんだよ」と言っていました。

「大家さん、あの踏切はその後どうなったのでしょうか・・・・」

旅館・学びを実践に

1969年(昭和44年)に卒業し、故郷松江に戻り、家業の旅館業に従事しました。2004年(平成16年)からは私が経営者として運営してきました。

旅館のモットーは『安くて安心』です。お客様は長期滞在の建築、土木関係の方が主体です。長い方で1年、1年半。普通は1か月から3か月位です。同じお客様なので朝食、夕食の献立を毎日全部変えてゆきます。食中毒など出して現場の工事が止まる様な事があってはなりません。お客様の健康に非常に気を使いました。

また、数日お泊まりの小・中・高・大のスポーツの団体のお客様や、観光やビジネスのお客様もいらっしゃいます。一泊、二泊の短い間に不愉快な出来事があってはなりません。お客様のスケジュールが円滑に進み、楽しい思い出に繋がるよう努めました。

ホテルとは異なる、宿泊定員21名の和風旅館としてのささやかな気配りが、『国際観光都市松江』の今を支えて来たと、ひそかに自負しております。

宍道湖の夕日

その後・短大から学部へ

2018年(平成30年)移転の話が起こり、お店を閉め、旅館業から引退し、今は穏やかな人生を送っております。居ながらにして日本全国のお客様にお会いすることが出来たのは、旅館業の醍醐味だったと思います。

その基礎を作って下さった、私の学生時代の関係者の皆様に感謝申し上げます。2年間の学生時代に講義と実習に明け暮れるのは確かにハードでした。実業での苦労に打ち勝ち、耐える事が出来、未熟だった私が曲がりなりにも50数年旅館業で頑張ってこられたのも知識を与え、指導し、協力し、励ましてくださった方々のお陰だと心より思っております。

短期大学観光科は2002年(平成12年)に廃止になりましたが、私の人生では、現在も光輝いております。『国内外の観光を背負って立つ人材を育成する』為に東洋大学国際観光学部が私たちの歴史を継承していると聞いております。

どうか、後輩の皆さんも頑張ってくださいますよう。

 

後藤 雅子
1969年(昭和44年)
短期大学観光科卒業
松江市在住

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